知立市の三河牛田城跡は戦国時代の天文年間(1532~1555)に刈谷城主・水野忠政の家臣だった牛田玄蕃頭政興(うしだ げんばのかみ まさおき)が築いた城です。
■牛田城の石碑の場所の住所■
知立市南陽2丁目
現地説明看板
牛田城は、戦国時代の天文年間(1532~1555)に、牛田玄蕃頭政興(うしだ げんばのかみ まさおき)が主君刈谷城主・水野忠政の命を受けて築城した城とされる。今川氏が西三河に勢力を伸張していた当時、水野氏にとって、牛田城の南を流れる猿渡川(さわたりがわ)は自領を守るための生命線であり、今川・松平氏に対する備えとしてこの城を築いた。
城は永禄三年(1560)の今川義元侵攻の際に攻め落とされたとも、義元死後配されたとも伝えられているが、この今川氏との攻防の際、牛田政興の活躍は見事であったという。なお、牛田町西教寺には、政興の位牌が祀られている。
知立市教育委員会
気になる高低差
牛田城の遺構は残っておらず、石碑と看板だけですが、城巡りの時に気になるポイントがあります。それが高低差です。牛田城は石碑があるところを起点にして、東~南側に猿渡川(さわたりがわ)が流れており、それに向けて地形が低くなっています。猿渡川は天然の堀だったのでしょう。つまり逆に言えば猿渡川から牛田城跡を見ると高くなっているのです。ちょうど台地の先端にある城だった事がわかります。
国土地理院の基盤地図情報で牛田城の地形を見てみます。牛田城の東~南を流れている猿渡川ですが、もともとは現在の川幅より広かったみたいで、渡るには困難な川幅だと思えます。現在の住宅地図で見ると猿渡川はそのほとんどが埋め立てられていますが、牛田城は崖っぷちの場所にあった城という事がわかります。
これは以前、城巡りコミュニティで知立市の牛田城址を訪れた時の画像。参加者からも遺構はないものの、高低差は分かりやすいという意見がありました。
私の感想
私の牛田城の感想ですが、遺構は残っていないものの、高低差で城址を偲ぶことができる城だと思いました。また桶狭間合戦の時に今川軍に落とされた城ということで、郷土史レベルの桶狭間合戦を知ることができると思います。