知立(ちりゅう)市西町に知立古城址という、城址があります。ここは戦国時代、知立神社の神官だった永見氏の居城。
永禄三年(1560)の桶狭間合戦の時は今川軍に降伏し、今川義元が沓掛城の先日に宿泊した城といわれています。
現在、知立古城址は住宅地と西町児童遊園という公園になってますが、公園の前に江戸時代前期の様子を伝える屏風に描かれた御殿と知立神社という看板があります。
これは知立市教育委員会が建てた看板で、出典は三井記念美術館所蔵の大日本五道中図屏風の一部分です。江戸初期の知立古城址と知立神社を中心に、名所旧跡が描かれています。
そこで今回はこの大日本五道中図屏風に描かれている名所・旧跡が現在ではどうなっているのかをいくつかチェックしてみます。
■知立古城址の場所の住所■
知立市西町西11
岡崎城
まずは東から岡崎城。岡崎城の北側(上側)を通る道が城を囲むように曲がりくねってます。これは東海道岡崎二十七曲りです。そして左手(西)に八町(はっちょう)という文字が見えますね。
ここは八丁村のことで八丁味噌を作っている村。現在でもまるやとカクキューの2社が八丁味噌を製造しています。
業平塚
そのまま西へ目を向けると、八橋村、業平石塔、うじ田の文字が見えます。八橋村は現在の知立市八橋町で、カキツバタで有名な無量寿寺(むりょうじゅじ)や名鉄三河線の三河八橋駅があるとこ。
うじ田は知立市牛田町。ここにも牛田城という城址があります。
そして業平石塔は在原業平(ありわらのなりひら)の分骨を納めた石塔といわれているもので業平塚として残っています。
↑これが業平塚。この周辺も八橋伝説地といわれています。
知立神社と御殿
この看板が建つ場所が大日本五道中図屏風の中心になっています。知立古城(知立城)は永禄三年(1560)の桶狭間合戦で落城し、その場所は江戸時代初期には将軍の休泊用の御殿になっていました。
御殿と書かれているのが知立古城址(知立城)で、知立神社との間にある道が東海道です。
刈谷城
知立古城(知立城)前の東海道から、刈谷道という街道をまっすぐ進むと刈谷城に着きます。刈谷城は天守は無く、本丸の周囲を櫓で囲んだ城でした。
境川
尾張三河境という横に黒い線が描かれています。これが境川(さかいがわ)。この境川の左(西)が尾張国で右(東)が三河国です。
現在でも豊明市(尾張)と刈谷市(三河)の市境になっている川です。
その境川に架かっているのが境橋。江戸時代、かつてここに尾張と三河の境川を渡る境橋がありました。現在では国道1号線より1本東側を通る県道に架かる橋です。
いも川村と千人塚そして有松宿
江戸時代初期には東海道も完成していて、東海道沿いの名所も記載されています。ここにも次の3つが描かれています。
- いも川村
- 千人つか(戦人塚)
- ありまつ(有松宿)
いも川村
いも川村とは現在の刈谷市今川町。東海道沿いにあり、江戸時代にここで、いもかわうどんという名物がありました。
そのいもかわうどんが、後に名古屋名物のきしめんになったという説があるのです。つまりきしめんのルーツがある村ですね。
ちなみにきしめんの原型ともいわれるいもかわうどんは、現在復元されており、きさんという飲食店で食べることができます。
千人つか(戦人塚)
戦人塚とは、織田信長と今川義元が戦った桶狭間合戦の戦死者を祭った塚です。つまり墓ですね。これも東海道に近い場所にあり、江戸時代には旅の名所になっていたみたいです。
有松宿
ありまつとは東海道有松宿のこと。有松宿は東海道五十三次(五十七次)の宿場ではなく、わかりやすくいうと大きな商店街みたいな場所でした。
でも名産の有松絞りが有名で、多くの旅人が訪れたとか。現在では愛知県内では有名な観光地になってます。
鳴海(鳴海宿)
有松宿の隣が東海道鳴海宿。ここは東海道五十三次(五十七次)の宿場で、庶民が泊まる旅籠、大名や幕府要人、公家が泊まる本陣、脇本陣もありました。
現在では観光地ではなく、静かな住宅地になっていますが、東海道鳴海宿時代の名残が残っており、街道ウォーカーには人気のスポットです。
私の感想
私の知立城前に建つ大日本五道中図屏風の感想ですが、屏風に記載されている名所、旧跡がたくさん残っており、散策するのも楽しかったです。
屏風の中の距離感は、現在の住宅地図とは違い、かなりデフォルメされていますが、伝えたいことは十分にわかるので、縮図として見れば問題ないかと思います。