刈谷城主・水野忠重を暗殺した加賀井弥八郎秀望の墓が残る知立市宝蔵寺

愛知県知立市の宝蔵寺(ほうぞうじ)は、曹洞宗の寺院。関ヶ原合戦の直前、水野勝成の父で刈谷城主だった水野忠重を暗殺した加賀井弥八郎茂望(秀望、秀重とも)の墓があります。

■宝蔵寺の場所の住所■

知立市宝町刈谷道56-1

宝蔵寺の場所の地図

なぜここに加賀井重茂望の墓があるのか?そして現代に伝わる水野忠重の最後とは?話は関ヶ原合戦の直前である慶長五年にさかのぼります。

出合った3人

加賀野井弥八郎秀望(かがのい やはちろう ひでもち)は別名・加賀井秀重ともいわれ、かつて加賀野井城(かがのいじょう:岐阜県羽島市)主でした。織田信長、羽柴(豊臣)秀吉に仕え、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦では西軍となり、石田三成から徳川家康暗殺の命を受け関東に向かいましたが、目的を果たすことができずに引き返します。

帰路の途中、三河国池鯉鮒(ちりゅう:現在の愛知県知立市)宿で、当時の遠州浜松城主・堀尾吉晴に出合い意気投合。吉晴はこの時、刈谷城主・水野忠重と会うことになっており、その席に秀望を誘います。この水野忠重という人物は、水野勝成の父です。2人は水野忠重が待つ池鯉鮒宿・杉屋に赴きました。

宴の席で…

突然、加賀野井秀望を連れてきた堀尾吉晴に水野忠重は驚きましたが、吉晴が連れてきた人物ということで忠重は快く迎え、三人で宴が開かれたのです。ちなみにここで整理しておきますが、3人は口に出さなかったもののすでに東軍と西軍に分かれています。一覧は次の通り。

・堀尾吉晴(東軍)

・水野忠重(東軍)

・加賀野井重茂(西軍)

この酒宴でどの様な話が行われたのか記録にはありません。しかし宴の時間が進むにつれ、水野忠重と加賀野井秀望が口論となり、ついには秀望によって忠重が切り殺されてしまいます。秀望は堀尾吉晴にも斬り付けましたが、逆に吉晴に斬られ命を落としてしまいます。その加賀野井重茂の遺体が葬られたのが愛知県知立市にある宝蔵寺です。

重茂の墓

宝蔵寺に葬られた重茂の遺体は、その後、岡崎城主・田中吉政によって墓碑が建立されました。墓は全高45cmの宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、平成十三年1月に知立市西町の近藤石材商店が改葬しました。また太平洋戦争で一部が紛失しており、現在では一部しか残っていません。

追腹塚

そしてもうひとつ、このエピソードに関わる史跡があります。それが追腹塚(おいばらづか)です。池鯉鮒宿・杉屋で暗殺された水野忠重には2人の付き人がいましたが、この2人は主人を守る事ができず、責任を感じて自害してしまいます。その2人を埋葬したのが追腹塚です。

もともとは宝蔵寺ではなく、近くの知立市宝町石亀にあったものですが、当地は開発が進み、塚は宝蔵寺に移転されました。

私の感想と意外な逸話

私の感想ですが、関ヶ原合戦は有名な戦いですが、その余話がいろんなところにあり、調べて行くうちに話と話がつながる瞬間が歴史の面白さでもあると思います。池鯉鮒宿は江戸時代に整備された宿場として有名ですが、江戸時代以前もこの地に宿場があった事が分かりますし、また交通の要所だったのでしょう。最後に宝蔵寺の3つ目の逸話を紹介します。

永禄三年(1560)の桶狭間合戦時に竹中半兵衛重治が、桶狭間に向かう今川義元軍を宝蔵寺の松の木の上から見物していたそうです。沓掛城に向かう前日、義元は宝蔵寺から北に約100mの場所にあった知立城(知立古城)に立ち寄っていますが、これは地元に伝わる逸話なので信憑性はどうか分かりません。ちなみにその時の物見の松は現在残っていません。

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