水野勝成の生誕地説がある碧南市・鷲塚城の場所とアクセス方法

愛知県碧南(へきなん)市に尾城公園という、変わった名前の公園があります。実はここ、かつて鷲塚(わしづか)城があった場所です。この公園が城跡だったという話は、昭和の頃からあったのですが、近年注目されて令和二年(2020)に鷲塚城跡の石碑も建立されました。

なぜかというと、初代・刈谷藩主の水野勝成の生誕地説がある城だからです。水野勝成とはどんな人物なのか?またなぜここが生誕地なのか?アクセス方法や現地のレビューなど、鷲塚城跡をチェックしてみましょう!

■鷲塚城跡の場所の住所■

碧南市尾城町2丁目16−5

>>鷲塚城の場所の地図

水野勝成とは?

水野勝成(みずのかつなり)とは、初代・刈谷藩主で愛知県刈谷市が一生懸命にPRしている戦国武将です。ゆるキャラの『かつなりくん』は、水野勝成がモデルです。しかしこの水野勝成、刈谷市生まれではなく、岡崎市や碧南市の鷲塚城生まれという説があります。

正直、どこで生まれたのかよく分からない。そこで候補に上がった碧南市の鷲塚城なのですが、ここは勝成の父・水野忠重が永禄七年(1564)~天正八年(1580)まで城主を務めた城であり、水野勝成の生まれた年が永禄七年(1564年)なので、水野勝成は鷲塚城で生まれたとも考えられています。 

建立された石碑

そんな尾城公園に令和二年(2020)に鷲塚城の石碑が建立されました。ただしこの石碑や案内看板には水野忠重が強調されており、水野勝成生誕地については触れていません。

鷲塚城

 旧字城山にあった居館跡。侵食谷(しんしょくこく)を中央に挟んで南へ突き出た二つの半島状台地にあったといいます。城の東西南三面は入海でした。城の北西に鷲塚から大浜・棚尾へ通じる道があり、途中城山の西に切戸という難所があり鷲塚を守る要所であるので、ここに城を構えたと伝えられます。

 規模は東西二六〇間(約470m)、南北二百間(約360m)で、居館は東の丘にあったといいます。(旭村誌)。兄・水野信元との不和のため永禄六年(1563)頃から鷲塚にいた水野忠重が、永禄七年(1564)頃から天正八年(1580)まで在城したと伝えられます。

碧南市教育委員会

現地案内看板にある碧南市教育委員会作成の鷲塚城想像絵図。これを見ると2つの独立した台地の上に鷲塚城と考えられる軍事施設があるワケですが、現在は高低差はあるものの地続きになっており、かつての様子はよく分かりません。

また堀や土塁といったよくある城跡の遺構も残っておらず、正直、この石碑と案内看板が無いと、ここが城跡と分からないレベルです。

私の感想

私の感想ですが、遺構は残っていなくても石碑や案内看板でかつての城跡を偲ぶことができると思いました。また水野勝成は昨今、愛知県刈谷市が頑張ってPRしている戦国部将なので、その生誕地説がある碧南市や岡崎市も今回の石碑建立みたいにPRして頂きたく思います。

ちなみに今回の鷲塚城主・水野忠重なのですが、関ヶ原合戦の時に後に国宝天守を築く堀尾吉晴のおせっかいで、知立市で暗殺されてしまいます。これで知立市、刈谷市、碧南市と水野氏ラインふができるので、まとめて史跡めぐりや城巡りを進めてみるのも良いですね。

>>水野忠重が亡くなったキッカケがこの出来事です!

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