日本100名城にも認定されている静岡市葵区の駿府城から、車で約5分くらいの場所に華陽院(けよういん)というお寺があります。ここには徳川家康の祖母・源応尼(げんおうに)の墓があります。実はこの源応尼こそ、戦国時代一の美女だったのではと私は思います。
ただ美人すぎて不幸になった女性でもあるのです。ではそんな源応尼とはどんな女性でどんな人生だったのか?早速チェックしてみましょう!
最初のダンナ
源応尼の生涯については謎が多く、出生も詳しく分かっていません。そんな中、愛知県知多郡東浦町教育委員会発行の於大の方と水野氏によれば、彼女は三河寺津城主・大河内元綱の養女としています。名前は於富(おとみ)。
於富は刈谷城主・水野忠政の継室(後妻)となり、次の4人の子を産みます。
・水野忠守(信長公記に出る水野監物?)
・於大の方(徳川家康の母)
・水野忠分(荒木村重との有岡城の戦いで戦死)
・水野忠重(水野勝成の父)
ここまではそれなりに幸せだったみたいですが、ここから美人ゆえの悲劇が起こります。
お前の妻をくれ!
この頃、三河で新興勢力が大きな力を持ち始めていました。松平氏です。知多半島から三河に進出した水野氏でしたが、松平氏には逆らえません。尾三の女たち(江碕公朗著・M&M出版)によるとこの時、清康には妻がおらず、(離別と死別)なんと於富を自分の妻にするからくれ!と忠政に迫ります。
清康に逆らえなかった忠政は於富と別れ清康に差し出しました。この時、清康18歳。於富39歳ともいわれ年齢差は2倍以上!於富がいかに美人だったのか、つい想像してしまいます。
続く悲劇
2人目のダンナに嫁いだ於富でしたが悲劇は続きます。なんと松平清康は24歳で家臣のカンチガイにより暗殺され、松平は大きく傾いてしまいます。実家に戻った於富でしたが、美人だったせいか求婚の申し出があり、星野秋国そして菅沼定望と結婚を続けましたが、なぜか彼女のダンナになったオトコたちは次々に亡くなってしまいます。
そして5番目のダンナ、川口盛祐が死去した後は、いい加減に疲れたのか剃髪して尼になり、源応尼(げんのうに)と呼ばれました。その後、源応尼は孫の竹千代(後の徳川家康)が駿府に人質として送られる時に付き添い、桶狭間合戦が起こった永禄三年(1560)五月6日に七十余歳で亡くなり、智源院に葬られます。
忘れなかった家康
時は流れ慶長十四年(1609)。徳川家康は智源院を玉桂山華陽院(ぎょくけいさん けよういん)と改称し、仮葬に近かった彼女の墓を再建し、寺の掲額を自分で書きました。その内容を要約すると次のとおりです。
ここは祖母である源応尼の旧地。私は駿府城に人質となり禅尼の家に住んだこともあった。老尼は私の8歳~10歳余になるまでかわいがってくれた。葬儀の時、私は戦陣にあってそのままにした。私はすでに征夷大将軍に任命された。もし生きているなら真っ先に祖母に報告したかった。今年は祖母の五十回忌。これを記念して尼公の墓をつくる
(参考・尾三の女たち:江碕公朗著・M&M出版)
華陽院は徳川家の崇拝も厚く、東海道を上下する大名たちはこの寺を拝礼するのを忘れなかったといいます。
私の感想
戦国一の美女と聞くと、織田信長の妹・お市を思い浮かべます。しかし他にもいろんな女性のエピソードが残っているものなんですね。あと思ったのが、戦国時代の女性は記録や資料が少ないこと。記録が少ないのでいろんな仮説ができますが、逆に矛盾点も生じます。
於富さんの場合ですと、松平清康は天文四年(1535)に亡くなっているので、それ以後に生まれた水野忠分や忠重の母は於富さんではないことになります。この矛盾点は今後、いろんな研究で少しずつ解明されるのでしょうけど、徳川家康の祖母もまた戦国時代をたくましく生きた女性のひとりでした。