戦国武将の福島正則といえば、賤ヶ岳七本槍のひとりに数えられた、豪傑というイメージがありますよね。
でも逆に乱暴者で酒癖が悪く、金遣いが荒そうで、最後は徳川幕府に騙された…というイメージがあります。
でも実際には情に厚く、戦以外の治世なども優れており、また倹約家でもありました。
今回はそんな福島正則のあまり知られていない逸話(エピソード)をいくつか紹介したいと思います。
堀川は福島正則が掘った!
名古屋城の西を流れる堀川は、福島正則が開削総奉行として掘った堀です。
名古屋城は関ケ原合戦後の慶長十五年(1610)に、西国の大名20家を動員して築城されましたが、この中に当時、安芸広島を治めていた福島正則もいました。
当時まだ大坂に豊臣家が存在しており、名古屋城は豊臣家と西国の諸大名との戦を想定した城で、防御も重要だったのです。
正則が開削した堀川は、有事(戦など)の時は、名古屋城を守る堀になりますが、平和な時は物資を運ぶ運河として利用されました。
現在でも堀川は残っており、最近では浄化のためのいろんなプロジェクトが行われています。
例えば2004~06年くらいには、手作り甲冑団体の日本甲冑武者隊が、甲冑を着て船に乗り水上パレ―ドを行ったりと、市民レベルでの関心は高いです。
ちなみに納谷橋(なやばし)には、福島正則の紋所をあしらったモチーフがあります。
橋の欄干に溶け込んでいて、これに気付く人は少ないですが、注意してチェックしてみてください。
倹約家だった
正則が清洲城主だった時に関ケ原合戦が起きました。
徳川家康率いる大名たちは当初、上杉家を討伐するために北陸へ進軍していましたが、小山(栃木県小山市)で石田三成の挙兵を知らされます。
ここで有名な小山評定(作戦会議)が行われたのですが、その席で山内一豊が居城である掛川城を家康に差し出すと言ったのを皮切りに、東海道に城を持つ諸大名も自分の城と備蓄している兵糧を差し出すと申し出ました。
その後、諸大名は西へ向けて進軍しますが、清洲城に入った時、備蓄されていた兵糧の多さに驚いたといいます。
これは正則が常日頃から兵糧をため込んでいた、いわば無駄遣いせずに倹約していた結果と言われています。
荷物を与えた船主を許した
関ケ原合戦後、西軍主力の大将だった宇喜多秀家は八丈島に流罪になりました。当時の八丈島は米の収穫が非常に少なく、秀家は貧しい生活をしていたのです。
そんな中、福島家の貨物船が八丈島に漂着し、秀家は荷物の中にあった酒樽を1つもらえないかと船主に頼みます。
当主である正則に内緒で、しかも正則の大好物の酒樽を渡した日には、船主はどんな処罰が待っているのかと断り続けましたが、秀家の頼みっぷりが凄かったのか、とうとう酒樽を1つ渡してしまいます。
その後、無事に残った荷物を持ち帰り正則に面会した船乗りは、処罰覚悟で秀家とのやり取りを一部始終、正則に話しました。
すると正則は、『宇喜多殿は敵とはいえ、関ケ原で戦った好敵手だ。武士の情けではないが、よくぞ酒樽を渡してくれた!』と、船主を処罰するどころか褒め称えたといわれています。
2人の人物に頭が上がらなかった
以上の事から、正則は自分の信念を曲げず、まっすぐに生き、なおかつ誰も恐れなかったというイメ―ジがありますが、2人だけ頭が上がらなかった人物がいたといわれます。
しかしそんな正則も実は恐れた人物が二人いた事が分かっています。
ひとりは彼の奥さん(笑)
正則は恐妻家だったらしく、ある時は女性問題で嫉妬に狂った継室・昌泉院に、薙刀で斬りつけられて、戦場では臆したことはないと自負した彼も、これには逃げ出したと言う逸話が残っています。
そして二人目が千利休。
ある時、正則は細川忠興に『なぜ戦にも出たことがない、よく分からない茶人の千利休の弟子になったのか?』と尋ねました。
この時、忠興は何も言わず正則を茶会に招きます。
茶会が終わると正則は、『私は今まで戦場では、どんな強敵にも背中を見せず怯んだことは無かったが、利休と立ち向かい、同じに茶室にいると、どうも臆したように思ってしまった』と、すっかり利休に感服したそうです。
相手を驚異に思うことは、なにも戦場だけではないんですね。
その他にも母里太兵衛に秀吉からもらった国宝級の槍・日本号を呑み取られた話や、清洲から安芸広島へ転封になった時、知り合いの老婆の世話を次の領主に頼んだ話など、人情話も残っています。
また彼の生まれ故郷である、愛知県あま市では、英雄として市民に親しまれています。
名古屋から車で数十分の場所にあるので、福島正則が好きな人は是非、訪れてみてください。
詳しくはこちら⇒ 福島正則は地元では英雄!愛知県あま市の生誕地と菩提寺の菊泉禅院