織田信長の優れたところはいくつもありますが、心理作戦、つまり心理テクニックにも長けた人物でした。以下は信長の一代記・信長公記にある信長のカケヒキのエピソード。
居城の引っ越し
永禄三年(1560)駿河・遠江(するが:とおとうみ)(静岡県)の戦国大名である今川義元を桶狭間で破った織田信長は、東側からの驚異が無くなり、美濃(岐阜県南部)攻略を考えていました。しかし問題があったのです。それは信長の居城・清洲城(清須市)から、美濃を治める斎藤氏の居城・稲葉山城(岐阜市)が遠かったこと。そこで信長は拠点を移そうと考えます。それが小牧山(小牧市)です。
標高86mの小牧山周辺は濃尾平野で城下町も作りやすく、米もたくさん収穫できます。また敵が攻めてきても山城なので防ぎやすいとメリットは多かったのです。ただ長年清洲と周辺に住んできた家臣たちは引っ越しを嫌がるだろう…そこで信長は考えました。
ある日、信長は家臣たちを連れて二宮山(犬山市大懸(おおあがた)神社の奥宮がある場所:標高292m)に登りました。そしてここに築城するといい、家臣たちに引っ越しを命じます。
そして『あそこの峰は●●の家』、『向こうの峰は▲▲の屋敷を造れ』など、家臣達の住宅地プランも勝手に命じ始めたのです。その後一旦清洲に帰り、後日また二宮山の引っ越しについて家臣たちを前にひとりで盛り上がっていました。家臣たちはとんでもない山岳地帯に引っ越すので、上級武士から下級の足軽までとても落ち込みました。
やっぱ止めた
それから数日後、信長がふと『やはり二宮山をやめて小牧山に引っ越すか』というと、家臣たちは驚き歓喜しました。小牧山は標高86m。ふもとまで川が流れており家財道具を運ぶのにも便利だし、屋敷地は平地です。
同じ山でも二宮山より圧倒的に住みやすい。家臣たちは喜んで引っ越ししました。信長公記の著者・太田牛一(おおたぎゅういち)は、『もし最初から小牧山に移転すると言えば、そこで不満が出たであろう』と感想を述べ、この話を『信長の優れた計略』と結びました。
ちなみにこの引越し劇にはオマケが付きました。当時、信長に敵対していた於久地(おぐち)城(丹羽郡大口町)の敵方は、小牧山にどんどん城ができていくのを見て、於久地城が小牧山城から丸見えで見下ろされているので、とても守りきれないと判断し、城を放棄して犬山城に逃げ込んだのです。
信長は心理テクニックで家臣の不満を封じて引っ越しを成功させ、おまけに戦わずして敵を城から追い出し、敵の城も無血で得ることができました。
補足と解説
信長の居城・清洲城と小牧山城周辺は濃尾平野で平地が広がっていますが、二宮山(犬山市)は山岳地帯です。確かに平地で生きてきた人たちにとって、山岳地帯への引っ越しはちょっとキツいですね。
信長公記に出てくる信長に敵対していた於久地(おぐち)は、丹羽郡大口町の小口城のことです。現在では城址公園として整備されており、中には資料館と物見櫓があります。
物見櫓に登ってみると…見えました!小牧山城です。当時はマンションやビルもなく、2階建ての建物なんて無かったので、今よりよく見えたのではないでしょうか。信長は心理テクニックで家臣の不満を抑えただけではなく、戦わずして敵の城をひとつ落としたのでした。