戦国時代には森蘭丸をはじめ、イケメンのエピソードがたくさんありますよね。そんな中、意外と知られていないのが織田信長の8番目(もしくは9番目)の弟・織田秀孝。
この秀孝は、守山城主・織田信次との不慮の事故で、若くして亡くなってしまうのです。以下は信長公記に出てくるエピソードです。
まだ織田信長が尾張を統一しきれていない、弘治元年(1555)頃の事。信長の叔父・織田信次は守山城(名古屋市守山区)に居城していました。
ある日の事。
信次は家臣達と近くの龍泉寺下の松川の渡しで川漁をしていたのですが、そこへ一騎の武者が通りかかりました。
挨拶なしで素通りしようとしていた武者に信次の家臣・洲賀才蔵という武士が、矢を射掛けました。すると矢は武者に当たり、武者は馬から転げ落ちました。
ちょっと驚かすつもりが、運悪く当たってしまったんですね。
信次たちは落馬した武者をよく見ると、なんと信長の弟・信孝だったのです!
信長公記の著者・太田牛一は、その時の死顔を次の様に描写しています。
太田牛一がこの様に人物を描写するのは珍しく、よほどの美男子だったのでしょう。
さて、大変な事をしてしまった信長の叔父・信次は、とにかく慌てて居城・守山城にも立ち寄らずに、その場から馬に乗ってどこかへと逃げ去ってしまいます。
この報せを聞いた同じ信長の弟・信勝(信行)は、弟のカタキと言わんばかりに手勢を率いて守山城下を焼き払いました。
しかし同じく守山城へ向かった信長は、
と、アッサリ清洲城に帰っています。
守山城は、徳川家康の祖父・松平清康が最後を迎えた城でもあります。有名な(守山崩れ)ですね。城跡は宝勝寺と周辺の住宅地。
今でも大きな堀跡が残り、櫓台の様な土盛りと石碑、案内看板が建っています。また周辺より高い場所にあり、高低差からも城跡の雰囲気が伝わリます。
松平清康、そして織田秀孝2人を偲ぶ事ができる城です。