家康にも秀吉にもズバズバ物言い!一筆啓上で有名な本多作左衛門重次の逸話集

日本一短い手紙で有名な本多作左衛門。彼は徳川家康含め、その父と祖父にも仕えた戦国武将でした。そんな本多重次は文禄五年(1596)68歳で亡くなるまでにいろんな逸話を残しています。この記事では本多重次の逸話を集めてみました。

鬼の由来

本多作左衛門重次は鬼作左と呼ばれていました。なぜ鬼と呼ばれていたのか?これには次のような理由があるからです。

・三方ヶ原の戦いで数十人の敵に取り囲まれた時、敵の騎馬武者の槍を握って落馬させ、その馬で逃走。

・長篠設楽原の戦いでは武田軍の中に切り込み大奮戦

・体は傷だらけで片目、片足、足の指が欠損していたといわれる

このエピソードだけでもまさに鬼ですね。

さらに豊臣秀吉が家康を上洛させるために実母(大政所)を徳川氏のもとへ向かわせた時、本多重次は大政所が滞在していた屋敷の周辺に薪を高く積み上げたことがありました。

つまり家康の身に何かあれば、秀吉の母(大政所)の屋敷に火をつけるぞ!という意思表示だったのでしょう。当時、まだ徳川氏は秀吉(羽柴)氏に臣従していなかったとはいえ、秀吉の実力はだれもが認めるところでした。その秀吉に対してもこの対応、まさに鬼です。

作左曲輪

武田信玄と徳川家康が戦った三方ヶ原の戦いの時、重次は家康から長期籠城戦になった時の兵糧の相談を受けました。重次は『兵糧はタップリと準備してあります』と答え、家康を喜ばせます。後にその米庫があった場所に重次の屋敷が置かれ、浜松城の曲輪のひとつとなり、作左曲輪という名前が付けられました。

大釜の換言

家康が安倍川で武田軍が処刑用に使っていた大釜を見つけ、家臣に持ち帰るよう指示します。大釜を運搬中、偶然そこを通りかかった重次が大釜を運ぶ理由を聞くと、いきなり大釜を叩き壊してしまいます。

そして家康に対して、『情けない!殿は大釜で煮る様な罪人を出す政(まつりごと:政治)を行うのか!』と換言したのです。家康は『私が間違っていた』と詫びたといいます。

家康のおでき

秀吉と戦った小牧長久手合戦の時、家康は背中の腫れ物をこじらせて重態に陥った事がありましたが、医者の治療を拒み続けていました。

そこで重次が『もう殿もここまでですな。では私が先に冥土に行き、道掃除をしておきましょう』と切腹しようとしました。重次に死なれては困ると、家康は医者の治療を受け腫れ物を治しました。

皆の前で家康を罵る

秀吉が小田原城の北条氏を攻める時、軍勢を連れて家康の居城・浜松城を訪れたました。重次が城内に入ってみると、秀吉の軍勢(羽柴軍)ばかりでした。

それを見た重次は『国持ち大名である家康様が一夜で城を他人に明け渡すとは何と情けない。まさか自分の奥さんも人に貸すのではないのだろうか?』と、大勢の前で家康の悪口を言いました。この時、家康も秀吉もいる前で言ったので2人にも聞こえています。

この時、家康は『あれは本多作左衛門重次という者で、私と昔より仲が良いのでつい、あの様な事を言ったのでしょう』。

そして秀吉は『あの様な家臣がいるのは実に奥ゆかしいことだ』と感じいったそうです。

結城秀康の恩人

徳川家康の次男・結城秀康の母・於万は、もともと家康の正室・築山殿の奥女中(身の回りの世話係)を務めていた女性でしたが、家康の手が付いて秀康を身籠りました。

家康は築山殿(奥さん)を恐れ、お腹の大きい於万を重次に預けます。そして秀康は重次に匿われている中村家住宅で誕生しました。つまり秀康から見ると重次は恩人ということですね。

私の感想と重次の生誕地

本多作左衛門重次といえば、『一筆啓上火の用心 お仙泣かすな馬肥やせ』の手紙でしか知りませんでしたが、調べてみるといろんなエピソードが残っています。

そんな本多作左衛門重次は現在の愛知県岡崎市の出身です。生誕地は糟目犬頭神社になっており、近くには日本一短い手紙の石碑も建立されているので、岡崎市の城や史跡とセットで訪れると良いと思います。

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