三河三奉行のひとり仏高力こと高力清長の生誕地・幸田町の高力城跡

愛知県額田郡幸田町の高力城跡は、徳川家康に仕えた三河三奉行(岡崎三奉行とも)のひとり、高力清長の生誕地です。

■高力城跡の場所の住所■

額田郡幸田町高力熊谷11−3

>>高力城跡の場所の地図

徳川家康に任命された三河三奉行はだれかというと高力清長、本多重次、天野康景の3人で「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵」といわれました。

これは高力清長は仏を大事にするし温厚、本多重次は鬼のように気性が荒い(時もある)、天野康景は慎重な性格でバランスが取れているという意味です。

特に高力清長はとにかく正直で律儀な武将として知られ、次のような逸話が残ります。

江戸の年貢は江戸のもの

小田原攻めで北条氏が滅亡すると徳川家康が関東に移封されしましたが、この時、高力清長が2万石で武蔵国岩槻(現埼玉県)に入っています。

その際、預け地1万石も与えられました。この時の預け地とは基本、徳川の領地なのですが、事実上は管理する者の領地同然で、当然収入として上がる年貢は管理するものが自分の物としてべつに良いという暗黙の了解があったのです。

しかし清長は預け地の年貢を1度も自分のものにする事なく、そっくりそのまま直接江戸へ運ばせました。

また文禄の役(朝鮮出兵)で軍船建造を担当した時のこと。言いつけられた船を全て完成させた時、金20枚が余り家康に返上しようとしたのですが、家康も清長の正直さに驚き感激し、金20枚をそのまま褒美として与えています。

そして家康だけではなく、豊臣秀吉も清長を陪臣(家臣の家臣。つまりこの時は家康の家臣ということ)ながら寵愛して重用しました。

秀吉が用事で岩槻に立ち寄った時、清長は心から秀吉をもてなしました。その饗応に秀吉はとても感心し、屋敷の庭前の萩の花を詠んだ和歌を清長に与えたといいます。二人の天下人に一目置かれた武将でもあり、大名でもあったのですね。

高力城跡は…

肝心の高力城跡の遺構はというと、残念ながら残っていません。

また城跡の東~南を流れる相見川もかつての高力城の堀跡かなと思いきや、廃城から400年以上経っているので、川の流れも変わっている可能性もあり、堀跡なのかどうかもよくわかりません。

でも石碑と現地看板が建っているのは助かりますね。

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