大庭氏が築上し五井松平氏が入った幸田町深溝城址の地名や鬼門、見どころなど

額田郡幸田町深溝(ふこうず)丸ノ内にある深溝城址は戦国時代にこの周辺を治めていた城跡です。現在では石碑と幸田町教育委員会が建てた案内看板があります。

■深溝城址の住所■

額田郡幸田町深溝丸ノ内

>>深溝城址の場所の地図

現地案内看板

 こうたの文化財

 深溝城は室町時代前半、深溝地域を支配していた三河大庭(おおば)氏によって築上された城であり、深溝城を居城とし周辺の開発を行った。城の北側に位置する長満寺は三河大庭氏が菩提寺として建立した寺である。

 十六世紀前半、大庭氏を滅ぼした松平氏は、一族の五井松平家・松平大炒助(おおいのすけ)に深溝城を与え、深溝松平家を名乗らせた。深溝松平家は菩提寺として本光寺や三光院を建立し、深溝神社を城の守護社として崇敬した。鬼門に深溝神社、裏鬼門に本光寺(元)が位置しているのも、計画的なものであろう。

 四代・家忠まで深溝松平家が城主を務めたが、天正十八年(1590)吉田城主であった池田輝政領となり、家臣の日置忠俊(へき ただとし)が城主となる。その後、深溝松平忠利(ただとし)による深溝西郡藩の主城時代を経て、慶長十九年(1614)に板倉重昌が深溝藩主となり、以降幕末まで板倉氏による深溝支配の拠点となる。

 ただし、深溝城として機能していたのは寛永十五年(1638)までであり、それ以降は、旗本板倉氏八千石の深溝陣屋として機能した。

 幸田町教育委員会

これは幸田町教育委員会が建てた現地案内看板の深溝陣屋絵図。江戸時代にこの周辺を治めていた深溝陣屋は、深溝城ともとにした陣屋だったことが分かります。つまり深溝城を江戸時代に深溝陣屋にしたということ。

これも現地案内看板にあった航空写真に加筆したもの。深溝城を中心の大庭氏の菩提寺・長満寺。そして松平氏の菩提寺・三光院、本光寺。城の鬼門に深溝神社、裏鬼門に元本光寺が配置されています。

そして城跡

深溝城址の石碑が建立されている場所はかつての深溝城の一部ですが、西~南にかけて低くなっており、石碑がある場所は高台になっています。これも城の高低差なのでしょう。その他、城の遺構は残っていません。

関連する2つの城

深溝には他にも2か所の城跡が指摘されています。ひとつは幸田町立深溝小学校がある場所。ここは周辺から独立した高台になっています。愛知県教育委員会発行の愛知県中世城館跡調査報告Ⅱ三河地区には、城主・詳細・由緒不明の深溝城Bという名前で記載されています。深溝城の支城があったのでしょう。

もうひとつは幸田町深溝上天白にある東光寺遺跡。この東光寺遺跡は弥生時代後期~鎌倉時代に至るまでの複合遺跡です。現地からは壺や石皿、須恵器や土師器(はじき)、茶碗などが出土していますが、弥生時代後期の環濠(かんごう)も確認されていることから、環濠集落があったみたいです。

また現在でも周辺に櫓下(やぐらした)、裏門という地名(字名)が残っていることから、鎌倉時代にこの地を治めていた土豪の拠点があったと思われます。ちなみに愛知県中世城館跡調査報告Ⅱ三河地区には『東光寺参考地』として記載されています。

所要時間と私の感想

深溝城は石碑しかないものの、菩提寺や鬼門、裏鬼門、そして2つの城跡など徒歩でぐるっと歩いて巡るのがオススメです。所要時間は2時間くらい。また本光寺は6月になると紫陽花(あじさい)で有名な寺で、その時ならあじさい祭りもセットで楽しめると思います。

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