額田郡幸田町深溝(ふこうず)西向野にある向野墓所(むかいのぼしょ:向野首塚とも)は、深溝松平家の菩提寺である本光寺がもとあった場所。深溝松平家初代・松平忠定と二代・松平好景の墓があります。
■向野墓所の住所■
額田郡幸田町深溝西向野
現地説明看板
向野墓所は天正十八年(1590)に、深溝松平家が徳川家康の関東移封に従い深溝を離れるまで、深溝松平家の一族墓として使われていました。深溝松平家の移動に併せてこの地に建立されていた本光寺も関東に移ったため、墓所も一緒に移動したと考えられます。
慶長六年(1601)に五代・松平忠利が深溝藩主として深溝に戻ってきましたが、現在の山内の地に本光寺が再建し、その境内に歴代当主墓所を建立したため、再び墓所として使われることはありませんでした。その後、万治元年(1658)、福山藩主であった六代・松平忠房(ただふさ)がこの地を訪れて参拝したことで父祖所縁の地をして大事にされるようになり、この地に植えられていた二本の松の大木は、初代・忠定(源元公)、二代・好景(源昭公)の『御首験松』として、石垣と玉垣で囲まれ大事に護られてきました。
松は老齢により昭和二十五(1950)に伐採されましたが、諡号(しごう)が刻まれた二本の石碑が墓所の歴史を今に伝えてくれます。
幸田町教育委員会
これを読むと深溝松平家の菩提寺・本光寺は、もとはこの場所にあり、徳川家康の関東移封後、再び戻った時に現在の場所に本光寺を移したことが分かります。
初代・忠定と二代・好景
向野墓所(首塚)には、深溝松平家初代・忠定と二代・好景の墓があります。
【松平忠定】
定説では五井松平家・松平忠景の次男。兄の松平元心が深溝城の大場二郎左衛門景紀を討ち取り城を与えられようとしたが、弟の忠定には所領が無かったために深溝城を譲った。その後、本家の五井松平家より独立し深溝松平家を立てる。
【松平好景】
松平忠定の子。松平元康(徳川家康)が兵糧を入れた大高城から撤退する時に殿(しんがり)を務めた。その後、東条城の吉良義昭との善明堤の戦いで討死。
これは現地説明看板にあった太平洋戦争前の向野墓所の写真。2つの墓碑の横に大きな松があります。向かいの墓所の私の感想ですが、深溝松平氏の初代と二代の墓、そして菩提寺の本光寺が以前あった場所ということで、深溝松平氏にとっては貴重な史跡だと思います。所要時間は5分ほどなので、近くの深溝城などとセットで訪れると良いと思います。