幸田町坂崎城址は岡崎三奉行のひとり天野康景の屋敷跡

額田郡幸田町坂崎にある神明社は、戦国武将で徳川家康に仕えた岡崎三奉行(三河三奉行とも)のひとり、天野康景の屋敷があった場所です。別名・坂崎城跡。岡崎三奉行(三河三奉行)とは、徳川家康が桶狭間合戦で今川家から独立し、まだ三河にいた頃。天野康景、高力清長、本多重次の三人を三河の奉行に任命し、民政、訴訟等を担当させたことでこの名称がついたとか。

またこの3人は性格もそれぞれ違っており、「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」(清長は仏の様におおらかで寛大、重次は鬼のように剛毅、康景は慎重で無難)と評価され、バランスが良い奉行衆といわれていました。そんな天野康景は現在の額田郡幸田町の出身。生誕地は坂崎城という城で、この地の豪族の息子だったというワケです。

では、その坂崎城跡はどうなっているのか?現地レビュー行ってきます!

■坂崎城跡の場所の住所■

額田郡幸田町坂崎平蔵脇95

>>坂崎城跡の場所の住所

城跡は神明社

城址は現在、神明社になってます。神社の入り口のところに地元の方でしょうか?天野康景の活躍について展示があります。

天野康景邸跡

 天野氏は康景の祖父の代に三河に来て松平清康(家康の祖父)に仕えた。康景は天文六年(1537)生まれで、十一歳の時から家康の小姓として仕え、姉川の戦いや三方ヶ原の戦いにも軍功をたて関東移封の時には下総の香取郡で三千石を与えられ、関ヶ原役後の慶長六年(1601)には駿河の興国寺城一万石の城主となった。名前も始めは景能であったのを家康から『康』の字を与えられ康景と改めたのである。

天野氏の住んだ坂崎城は、大字坂崎字城地内にあり、天野康景邸跡として記念碑がたつ。

天野康景邸跡の現地看板。ここには天野康景の天野氏の事や、康景の活躍について記載されています。ちなみにこの看板を見ると、天野康景は当初、景能と名乗っており、後に徳川家康から【康】の字をもらったという事が書かれています。

つまり天野康景の【康】は、徳川家康の【康】なのですね。

私の感想で天野康景は三河武士の中では、あまり知られていないものの、家康の家臣団の中では重要な人物のひとりだったと思います。なぜかというと、康景が就任していた三河三奉行を表す言葉に「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」というのがあります。

この中で【どちへんなき】(慎重)というのが康景を示す言葉なのですが、他の二人とのバランスをとる様な性格だったともいえるのです。つまり必要な人物という事です。戦での華々しい活躍のエピソードなどは残っていませんが、石田三成みたいに行政や内政で力を発揮した人物だったのでしょう。

入り口中央にある天野康景邸阯の石碑。

石碑の裏側には古い墓、五輪塔がありました。誰の墓か記載は有りませんが、天野氏関連の墓かもしれません。

神社本殿の隣りには、参拝の時手を洗う手水鉢がありますが、横をよく見ると井戸があり、ここから水を引いてます。もしかすると天野康景時代からの井戸かもしれません。

坂崎城跡の周辺

次に神社の周辺をぐるり。入り口がある南側、そして東側から見ると平坦な地形に思えますが、西側(画像)から見ると神明社が少し高い場所にあることが分かります。城の高低差かもしれないですね。

さらに北側に行くと、神明社が更に高い場所に、というか北側が下がっている地形です。この様な高低差も城を偲ぶ材料になります。

周辺の様子。田畑が広がっています。かつては城下町などもあったのでしょうか?周辺の地名には城、櫓旗、馬頭、的場などがあります。

所要時間と私の感想

天野康景邸阯(坂崎城跡)の所要時間は10分もあれば、一通り見て周る事ができると思います。私の感想ですが、天野康景はマイナーな武将の様に思えますが、三河三奉行と聞くと有名人に入ると思うので、徳川家臣団に興味がある人は訪れておくのも良いと思いました。

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