幸田町荻城址は三河一向一揆で松平元康と戦った内藤清長の居城跡

額田郡幸田町の荻城(おぎじょう)址は、三河一向一揆で一揆方となり松平元康と戦った内藤清長の居城跡です。

■荻城址の場所の住所■

額田郡幸田町荻城跡2

>>荻城址の場所の地図

現地の説明

 内藤弥次右衛門清長公終焉の地と伝う

 荻城は寛正(一四六〇)の頃内藤氏京都より三河に移り住みこの地に屋敷 城を築いたと伝えられる。永禄七年以来明治三十八年まで内藤一族が居住。

 同年耕地整理事業に伴い城址の古木は伐られ堀は埋められ往時を偲ぶもの は姿を消し城 西堀の地名をのこすのみ整理後小字名は城跡となる。

 永禄六年の晩秋三河一向一揆起る上野城主内藤弥次右衛門清長は主君・松平元康(家康)、嫡子・家長、養子・信成、甥の正成同族甚五左衛門忠郷等と袂を分かち、熾烈なる信仰に燃え、宗門護持の為権勢に屈せず、決然起って法敵退治の為、進むは往生極楽、退くは無限地獄を旗印とし主従骨肉相食悲惨な戦いに敗れ、ここに蟄居の身となる。同七年甲子八月十二日死去す。享年六十四歳

法号 楽宝院殿釈幽鑑真光覚位

没後四百二十三年にあたり城の由来を記しここに碑を建立す

昭和六十二年八月吉日 荻郷土史研究会有志

なかなか読みにくい現地の解説ですが、内藤清長は三河一向一揆で一揆方に付き、敗れてこの地に蟄居の身となりました。ここで没し享年は64。昭和62年に建てられた石碑です。

荻城址の石碑の隣には内藤清長の供養塔もあります。

隣松寺にも墓がある

内藤清長の墓は豊田市隣松寺にもあります。ここは三河一向一揆の一揆方の拠点のひとつになった上野上村城が近くです。

荻城址の周辺

荻城址周辺は平地が広がっています。あえて言うなら西に向かって下がっている地形ですね。萩城址の所要時間は石碑読んで周辺見るくらいなので5分ほどです。私の感想ですが、幸田町まで三河一向一揆の史跡が広がっているので、広範囲に影響があった合戦だと思いました。

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