信長は若かった頃、うつけ(愚か者)と呼ばれ、織田家家臣から信頼されてはいませんでした。そんな時、父・信秀が流行り病で亡くなってしまいます。
信長と弟の信勝(信行)は葬式に出たのですが、信勝はキチンとした服装、所作をわきまえて参列しました。信長公記にもこの時の信勝の様子を【折目高なる肩衣・袴めし候て、あるべきごとくの御沙汰なり】と記載しています。
対して信長は、参列者の目前で抹香を掴み、位牌に投げつけるというトンデモナイことをしてしまいます。これにより参列していた家臣たちは、
『信長が跡継ぎではダメだ…信勝がイイかも…』
と、信長や織田家を見限ったという説があるんですね。つまり父の葬式は、織田家を見限る者や反信長派を生み出す舞台になってしまったということ。
まあ、それまでの信長もあまり素行は良くなかったので、不安を抱いていた者もいたかもしれませんが。
特に鳴海城主の山口左馬之助教継あたりは、信秀に対しては従順な家臣でしたが、信長が家督を継ぐと、居城の鳴海城のほか、大高城、沓掛城を攻略し、今川に寝返っています。
また筆頭家老の林秀貞(通勝)や柴田勝家も反信長の態度を鮮明にするなど、信長が家督を継いだばかりの頃は、何かと苦労も多かったのです。さて、そんな万松寺ですが、現在でも残っています。場所は名古屋市中区大須。
もともとは、もっと広かったと思われますが、今では商店街の一角にあり、信秀の墓と信長のカラクリ時計があります。大須商店街は江戸時代の清須越しで、清須から移ってきた信長の菩提寺・總見寺(そうけん寺)もあります。意外なところにある戦国史跡をチェックしてみましょう。
>>大須商店街の戦国ポイントそれが万松寺、摠見寺そして億萬石!