賤ヶ岳七本鎗の一人に数えられる加藤嘉明。伊予松山20万石。会津藩40万石の戦国大名でもあります。
マイナー気味の戦国武将ですが、歴史を調べてみるといろんな活躍をしているんですね。
秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いで武功をあげたのは有名ですが、また水軍の将としても知られ、小田原征伐、文禄・慶長の役も水軍を率いて参陣しています。
また文禄・慶長の役では、朝鮮に渡り敵に攻められ苦しんでいた加藤清正を助けた事もありました。こうして見ると、とにかく強そうなイメージがある嘉明ですが、当時にしては珍しいエピソードも残っています。
嘉明は南蛮渡来の焼き物を多く持っていました。その中でも秘蔵中の秘蔵【虫喰い南蛮】という10枚で1セットの品がありました。
ある日のこと。
家臣が誤ってこの虫喰南蛮の一枚を割ってしまったのです。
現在では考えられない事ですが、当時は茶器や焼き物の価値がものすごく高く、価値が高い茶器や焼き物を【名物】といい、『名物は一国にも勝る』とまでいわれていました。
※(一国とは日本国の事ではなく、尾張国とか三河国とかの一国)
実際、武田氏滅亡後、滝川一益は領地よりも【珠光小茄子】という名物の茶器を信長に所望したそうです。
しかし願いは聞き入れられず、上野国(現在のほぼ群馬県)と信濃二郡をもらいましたが、一益的には【珠光小茄子】のほうが価値があったのでしょう。
そこで話を戻しますが、秘蔵の焼き物【虫喰南蛮】を割ってしまった家臣は顔面蒼白。モチロン、軽く死罪でしょう。
この時、出奔(加藤家を出て行く)しようと思えばできたかもしれませんが、それより早く、嘉明のもとに虫喰南蛮が割れてしまった事が伝えられます。
嘉明に呼び出された家臣は死を覚悟して出向いたことでしょう。
しかし嘉明はその家臣の前で、残り9枚の虫喰南蛮を自ら割り捨ててしまいました。驚く家臣を前に嘉明は、
『9枚残っているなら、1枚は誰が割ったのか?という事がいつまでも残る。家臣はいうなれば私の体みたいなもので、どんなに名物でも家臣には代えられぬ。まあ、だいたい着物・草木・鳥類を愛でる者は、そのためにかえって家来を失うものだ。それではダメだ。主たる者の心得るべきことだろう』
みたいな事を言って、この家臣を許したそうです。
もしこれが福島正則だったら即死罪なのかもしれませんが、嘉明の【モノ】より【ヒト】を大事にした事が伝わってくるエピソードですね。
さて、そんな加藤嘉明は現在の愛知県西尾市上長良町(かみながらちょう)の出身という説があります。
神明社の中に愛知県の加藤嘉明生誕地の石碑も建立されています。