加藤嘉明生誕地といわれる愛知県西尾市上永良町に残る石碑

賤ヶ岳七本槍のひとりとして知られる加藤嘉明は、現在の愛知県西尾市上永良町の出身といわれています。

■上永良町神明社の住所■

西尾市上永良町宮東11

上永良町神明社の地図

(※加藤嘉明生誕地については、愛知県安城市説もあり)

加藤嘉明とは

加藤嘉明は豊臣秀吉、徳川家康に仕え日本100名城に数えられる伊予松山城(愛媛県)を築いた人物です。賤ヶ岳七本槍のひとり。

嘉明は永禄六年(1563)三河国幡豆郡永良郷の生まれといわれ、父は松平元康に仕えた武士・加藤教明(岸三之丞教明)でした。しかし嘉明が生まれた年の三河一向一揆で、父が一向一揆勢に組して元康に背く事に。後に一揆側は敗れて、嘉明は父と共に流浪の身となります。

その後、近江国(現在の滋賀県)で羽柴秀吉に仕え、最初は秀吉の養子・羽柴秀勝の小姓として仕えましたが、後に秀吉の直臣となり、播磨の三木城攻め、本能寺の変後の山崎の合戦、そして賤ヶ岳の戦いで武功をあげ、3千石の禄を与えられます。その後も小牧長久手合戦、四国攻め、九州征伐や小田原の陣、文禄・慶長の役でも活躍します。

秀吉亡き後の関ケ原合戦では東軍として参戦し、戦後、二十万石で伊予松山藩(いよまつやまはん:現在の愛媛県松山市)主となり、寛永四年(1627)には陸奥国会津藩四十三万五千五百石に加転封されます。

しかし嘉明の死後、御家騒動が起こり、庶子の明友が二万石で近江国水口藩(現在の滋賀県甲賀市)主となり、明治維新まで加藤氏が領することになりました。嘉明の死後、加藤家は散々な事になっていますね(汗)

そういえば同じ賤ヶ岳七本槍の中に加藤清正がいますが、加藤嘉明とは別の加藤さんです。

そんな加藤嘉明の生誕地といわれる場所は、現在の愛知県西尾市上永良町で、神明社に石碑があります。

境内の看板

上永良神明社と大椎の木

この神社の創立は、貞観年中(859~77)と伝えられ、寛永二年(1625)本殿の再建には、秀吉と家康につかえのちに伊予国(愛媛県)松山の城主となった。加藤左馬之助嘉明がこの地の出身とされるため特に力をそそぎました。 そして、嘉明は神職らに『加藤』の姓を与えたと言われ、境内には昭和初年に生誕地の石碑も建立されました。

また境内の拝殿前には『スタジイ』の木があり、樹高八メートル、根回り二〇メートルで、樹齢千年と推定される県下最大の古木です。 この大椎の主幹は枯死し、二本の枝幹と周囲に萌芽したひこばえが繁茂しています。

平成二年三月

神明社の中にある、愛知県が建てた加藤嘉明生誕地の石碑。嘉明は上永良村の出身ということで寛永二年(1625)に神明社の本殿を再建したと伝えられています。ちなみに嘉明の生誕地については、現在の愛知県西尾市上永良町(かつての三河国幡豆郡永良郷)といわれており、この神明社がある場所で生まれたという訳ではありません。またこの石碑もかつては同じ上永良町の別の場所にあったそうです。

天然記念物の大椎

神明社の拝殿前には、推定樹齢約1000年といわれる、大シイの木があります。国の天然記念物に指定され、高さ約8m、根囲約20m、胸高囲約7mもある県下最大のスダジイの老樹です。

所要時間と私の感想

上永良神明社の所要時間は境内をぐるっと周るくらいなので10分ほどです。私の感想ですが、加藤嘉明は賤ヶ岳七本槍のひとりで伊予松山城を築いたことで有名な人物ですが、その嘉明が西尾市出身説があるということで身近に感じます。

嘉明の出身地についてはここのほか、お隣の安城市に残る岩根城という説もあるので、両方訪れて自分なりに検証してみるのも面白いと思います。

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