今日は愛知県西尾市にある西尾城のオハナシです。西尾城の創建については諸説がありますが、通説では足利義氏が承久の乱(1221)の戦功によって三河の守護に任じられた事に始まります。
そして西尾城は『西条吉良氏』の城として存続しますが、応仁の乱になると細川方となり、山名方の『東条吉良氏』と骨肉の争いを行うなど、一族の力は弱まっていきます。
戦国時代に入ると、今川氏・松平氏(徳川氏)の台頭により、たびたび城主が入れ替わり、松平氏に攻め落とされ、天正十三年(1585)になると、西尾城の大改修が行なわれます。
記録によればこの時、帯曲輪・石垣・三層の天守が築かれたとあり、このほか数ヶ所に櫓・城門・高い城壁・掘を巡らしました。この大改修を当時浜松にいた家康は大いに喜び、西尾城を【鶴城】と命名します。これは近くにあった刈谷城(現・刈谷市)の別名【亀城】と並んで、縁起の良い名前をつけたという伝承があります。
江戸時代になると、岡崎城主であった田中吉政が、岡崎城・西尾城の両城主となります。
その後城主は、本多氏、松平氏、再び本多氏、太田氏に至り、寛永十八年(1641)外郭の築城工事を始め、五つの門を設け城郭の周囲に外堀や土塁が築かれ、明暦元年(1655)に西尾城はやっと完成されます。
その後六万石で明治に至った西尾藩は、明治新政府に恭順の意を示すため、全国に先駆けて城を解体します。しかしその直後に新政府から『その儀に及ばず』との布令が出て、城下の人々を残念がらせました。
この『その儀に及ばず』の布令がどういう意味だったのか?存続させる運動があったのか、それとも別の意味なのか、今でも解釈が進められています。が、もし取り壊さなかったなら、今まで残っていたのかも。ということは国宝天守になっていたのかもしれませんね。
その後、天守が建っていた場所は西尾市の体育館みたいな施設が建ち、現在ではそれも取り壊され天守台が再建されました。またその上に天守再建の構想もあるようですが、もう少し時間がかかりそうです。
でも現在、城址公園となっている、かつての西尾城の中心部をはじめ、周辺の住宅地には、至るところに土塁や堀跡の遺構が残っています。私の感想ですが、高低差があまり無い市街地なので、比較的ラクに散策できる城です。