令和二年(2020)に7月に西尾城の二之丸丑寅が完成しました。工事費1億5,950円。これは正保年間(1644~48)に幕府に提出された正保城絵図にも描かれている櫓です。内部公開はいつもではなく、たまに限定公開されています。
この記事では西尾城二之丸丑寅櫓の内部と石垣、そして屏風折れ土塀という見どころをチェックしてみます。
■西尾城二之丸丑寅櫓の場所の住所■
西尾市錦城町歴史公園北
かつての工事中
令和二年(2020)5月の画像。この頃には建設中に覆われていた幕みたいなものが取り外されて、だいぶ外観が見えてきました。
そして内部
では西尾城二之丸丑寅の内部を見てみましょう。これは現地にある南北断面図。外から見ると2階に見えますが、中に入ると3階の櫓ということがわかります。
これは2階の画像。2階と1階は共に東西三間(5.4m)、南北四間(7.2m)。城内側にあたる南と西は敵を攻撃する必要が無いために窓がありません。
古地図・二之丸居所之図のとおり、東側には敵を攻撃するための石落としを兼ねた出窓を復元しています。石落としとは壁伝いに登ってくる敵に石を落としたり、鉄砲(火縄銃)で攻撃するための穴です。
3階の大きさは東西二間半(4.5m)、南北二間(3.6)m。城内にあたる南側と西側の窓は一応あるのですが少ないです。
あと印象的だったのが中央部分が吹き抜けになっていること。なぜ吹き抜けになっているのか理由はわかりませんが、個人的には櫓内の3階部分には荷物などが置けず、収容能力が小さくなると思いました。
石垣は幡豆石
天守台と二之丸丑寅櫓の石垣は、三河湾で採石された幡豆石(はずいし)です。江戸時代初期から三河湾では石垣に適した石があることが知られており、名古屋城築城の時も加藤清正が篠島から石を切り出して運んだといわれています。
その他に福島正則、毛利秀元、田中忠政、池田輝政などが名古屋城築城時に三河湾から石垣の石を採石していることが分かっています。
そして他県でもこの幡豆石は評価されています。静岡県掛川市にある掛川城(日本100名城)は平成六年(1994)に再建された日本初の木造復元天守です。
その掛川城の天守台の石垣の一部に幡豆石が使われています。天守台の石垣の側面を見ると周辺より明るい色の石がありますが、これが幡豆石です。
屏風折れの土塀
二之丸丑寅櫓とセットで見ておきたいのが屏風折れの土塀です。まっすぐではなく折れていますね。なぜこうなっているのかという理由は、攻めてくる敵を正面だけではなく側面からも攻撃できるからです。
正面から見るとこうなっています。土塀が突き出ているので、斜め方向に鉄砲(火縄銃)を打つことができます。
内側です。
そして狭間(さま:鉄砲や矢を放つ穴)から見るとこうなっています。個人的にはもう少し突き出ていたほうが、より角度をつけて側面攻撃できると思いました。
ちなみにこの屏風折れ土塀は正保年間(1644~48)に幕府に提出された正保城絵図にも記載されています。赤枠で囲った部分は北側で、天守の西側にも屏風折れ土塀がありますね。その反対側は城内なので屏風折れ土塀はありません。
私の感想
私の西尾城二之丸丑寅櫓の感想ですが、もし内部公開されている日に訪れたら迷わず内部を見学しておく価値はあると思いました。
今回のポイントのほか本丸丑寅櫓、西尾資料館、天守台、近衛邸(抹茶飲めるとこ)など、周辺とセットで回ることで西尾城をより楽しむ事ができると思います。