徳川家康を火縄銃で敗走させた小笠原氏!西尾市幡豆町の走り付け古戦場

愛知県西尾市幡豆町の走り付け古戦場は、戦国時代、当地に勢力を持っていた豪族・小笠原氏が、松平元康(後の徳川家康)を敗走させた古戦場です。

走り付け古戦場の場所(住所)

西尾市東幡豆町走り付64

走り付け古戦場の地図

なぜこの戦が起こった?

走り付けの合戦が起こったのは、永禄三年(1560)の桶狭間の戦いの直後です。

それまで三河は駿河の今川氏の勢力下に置かれていたのですが、桶狭間合戦後、松平元康は岡崎城で今川氏から独立し、尾張の織田信長と同盟を結びます。

これで背後の憂いが無くなった元康は、三河を統一しようとします。

当時、三河国幡豆を治めていた豪族の小笠原氏は、寺部城や欠城を拠点とし、今川氏一族で三河国で勢力を持っていた吉良氏と仲が良かったのです。

しかし松平元康は、自分に従わない吉良氏を攻撃し始め、吉良氏と仲が良かった小笠原氏も松平氏の敵となり、松平氏に攻め込まれることになりました。

小笠原氏の策とは?

松平元康は戦は上手で、松平軍も統率がとれた強い軍隊でした。

対する小笠原軍は、まあ、それなりに強く水軍も持っていたのですが、松平軍と比べると兵の数も強さも劣っています。

しかし松平軍が攻めてくるので、撃退する方法を考えなくてはなりません。

小笠原軍は、居城の寺部城で軍義を開き、家臣のいろんな意見を聞き、またいろんな策を考えましたが、とても松平軍に勝つ様な作戦が浮かびませんでした。

そんな中、小笠原氏当主の小笠原重広は、良い案を思い浮かびます。

それは、当時最新兵器として広まり始めた、種子島というものを使って松平軍と戦うという案です。

種子島というのは後に火縄銃と呼ばれるもので、貿易港を持っていた小笠原氏は、いちはやく火縄銃をいくつか持っていました。

当主・小笠原広重が考えた案は、この種子島を使って松平軍を追い払うというものでしたが、この案を聞いた重臣たちは、目を丸くし、驚いて全員反対したのです。

なぜかというと、それは種子島が非常にヤヤコシイ兵器だったからです。

確かに種子島は大きな破壊力があり、鉄の甲冑を着た武者ですら、近くで撃てば倒すことができます。

しかし1発撃つのにとても時間がかかり、連射ができないのです。

小笠原氏が持っていた種子島は数十丁くらいです。

そんな数では、とても松平軍を倒すことなどできず、戦えば負ける事が分かっていました。

重臣たちは慌てて反対しましたが、小笠原広重は、

『わしに考えがあるのじゃ!』

といって、結局、戦になりました。

松平軍が攻めてきた!その時…

そしてとうとう、船で幡豆の浜辺に降りたった松平軍は、小笠原軍目掛けて攻めてきます。

小笠原軍は、懸命に抵抗しようと戦い始めました。

しかしその時!

『ズドーン、ズドーン、ズドドーン』と、種子島の轟音が響きわたります!!

松平軍の兵士は、今まで聞いたことがない轟音を聞き、驚いて混乱し始めました。

そんな中、さらに種子島の轟音が続き、松平軍は怯え、乗ってきた船に戻り、幡豆の浜から退却を始めました。

そんな松平軍を小笠原軍は追わず、とにかく種子島をたくさん討ち放ち、その轟音が響くたびに松平軍は怯え、全軍退却したのです。

対した被害を出さず小笠原軍は、後に街道一の弓取りと称される、戦上手の松平元康に勝利したのです。

意外な小笠原氏の勝因とは

この小笠原氏が松平氏を破った合戦は、走り付けの戦いという名で、愛知県西尾市幡豆町では昔話になっているくらい有名な合戦です。

現地には案内看板も建っており、また西尾市が発行している観光パンフレツトにも、この古戦場が記載されています。

しかしこの合戦で疑問も残りますよね?

だって、後年、織田徳川連合軍が武田軍を破った長篠・設楽ヶ原合戦みたいに、小笠原氏が千丁以上の火縄銃を持っていたというのも考えづらく、数十丁くらいの火縄銃で、本当に勝つことができたのか?

地方の豪族レベルで所有できる火縄銃の数など、そんな多い訳ではないので、火縄銃で勝つことなんて、ありえ~ん!と思いますよね?

でも私の感想なのですが、この走り付けの戦いは、本当に小笠原氏が火縄銃を使い松平軍を敗走させたのではないか?と思っています。

ではどうやって火縄銃を使って撃退したのかというと、それは地形効果だと思います。

意外と知らない火縄銃の音効果

私は愛知県古銃研究会に所属し、毎年、歴史祭りやイベントで10回前後の火縄銃演武を行います。

愛知県古銃研究会の火縄銃演武は、実弾こそ使わない空砲ですが、本物の火縄銃と火薬を使用して、古式火縄銃演武を再現しているんです。

そんな中、不思議な現象を体験したことがあります。

ある歴史祭りの時、私のブログやメルマガを読んでいる方が祭りに来てくれて、火縄銃演武を見終わった後、私にこう話しかけてきました。

『いや~ひでさん、今回も火縄銃の不発も無くお見事でしたよ!ところで今日の演武は、以前の歴史祭りの演武より、音が大きかったのですが、火薬の量を増やされたのですか?』

『………………………………』

この質問に私は驚きました。

なぜかというと、私が所属する愛知県古銃研究会は、火縄銃演武の時の火薬は完全配給制で、毎回同じ火薬の量が尊守されているのです。

なので歴史祭りによって火薬の量が変わるというのはあり得ない。

しかし観客の方は、歴史祭りによって火縄銃の音の大きさが違うと感じるんですよね。

なぜだろう?

そこで私の火縄銃の師匠である、愛知県西尾市在住の加藤征夫先生に尋ねたところ、

『それはね、地形効果というものだよ!』

という答えが返ってきました。それを聞いて私は、小笠原軍が松平軍を破った訳がわかったのです。

火縄銃の地形効果とは

火縄銃の地形効果とは、一言でいえば、

【撃つ場所によって音の大きさが変わる】

というもの。

例えば毎年4月に愛知県岡崎市で行われる、家康行列では、障害物が無い乙川の河川敷で火縄銃演武を行います。

この場合、音は広い空間に分散し、小さくなります。

対して毎年10月に岐阜県岐阜市で行われる、信長まつりでは、ビルが立ち並ぶ街の中心地で火縄銃演武を行うのです。

この場合、火縄銃の音がビルという建物に反射して、火縄銃演武を見ている観客の皆さんには、かなり大きく聞こえるみたいです。

音の反射の様子とか、科学的に私はよくわかりませんが、確かにこの音が反射する作用はあるみたいで、祭りやイベントによって、火縄銃の音の違いがある様です。

そう考えてみると、かつて小笠原氏が松平氏を火縄銃で破った、走り付けの戦いも、もしかすると火縄銃の音の地形効果があったのかもしれません。

走り付け古戦場は山間の地で、もしかするとここで火縄銃を発射し、音が山々に響き合い、それに驚いた松平軍が慌てて逃げだしたのでは?と思います。

もちろん、これは私の仮説ですが、実際に火縄銃を毎年100発以上撃っている私的には、この地形効果というか、音響効果も戦国時代の戦に活用できたのかもしれないと思っています。

まあ、小笠原氏が、意識的に音響効果を利用したのかどうかは分かりませんけどね(笑)

そんな走り付け古戦場は、現在では静かな漁港と住宅地になっています。

ちなみにその後の小笠原氏はというと、本多忠勝の薦めもあり、結局、松平元康(徳川家康)に従うようになります。

そして家康の関東移封に従い、居城の寺部城は廃城となり関東に移ります。

しかしそこで、本土からかなり離れた場所でたくさんの島を発見し、これが後に小笠原氏が発見したということで、小笠原諸島という名前が付いたといわれています。

(※諸説あり)

三河は有名な戦国武将や戦国大名をたくさん輩出している地なので、小笠原氏はマイナーな武将に位置付けられるかもしれません。

もしかすると、西尾市や旧幡豆町に住んでいる人ですら、

『小笠原っていう戦国武将?知らんわ!』

という知名度の低さかもしれません。

ですが、戦国時代に西尾市幡豆町に戦国武将・小笠原氏というのがいて、どうやら松平氏に戦で勝利した実績もある!という事は、忘れてはイケマセンね。

この走り付け古戦場には、西尾市の案内看板に建っているので、小笠原氏の功績、そして実力を偲んで訪れてみるのも良いですね。

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