長久手合戦図屏風を見ると、すでに池田恒興の首は無く、討ち取った武者が描かれています。この池田恒興を討ち取った武将が長井伝八郎直勝です。現在の愛知県碧(へきなん)南市出身の武将。碧南市には直勝の生誕地のほか、周辺には直勝ゆかりの地が残されているので、現在はどうなっているのか?チェックしてみましょう。
直勝の生誕地・宝珠寺
碧南市音羽町にある宝珠寺が永井直勝の生誕地といわれています。もともとここは、直勝の父・長田重元の屋敷(大濱羽城)があった場所といわれ、直勝もここで生まれたと考えられています。
長田から永井の改姓について。長田氏は野間大坊で源義朝を殺害した長田忠致(おさだ ただむね)の兄・親致の系統であり、直勝の代に徳川家康から主君を弑した忠致に繋がるとして、大江姓永井氏に改姓されました。
入り口と境内に永井直勝生誕地の石碑が建立されています。もと屋敷があった場所に宝珠寺が建立されているのですね。
■宝珠寺の場所の住所■
碧南市音羽町1−48
長田重元の墓
境内の墓地には直勝の父・長田元重の墓があります。墓自体は江戸時代に建てられたものです。
墓の側面を見ると、長田平右衛門尉重元墓と刻んであります。
個人的に気になったのは重元の墓の後ろにある古い墓。複数ありますが、江戸時代の墓より古い感じなので関連が気になりますね。
大浜城(大濱城)を知る手がかり?
宝珠寺の奥に戦国時代から江戸時代にかけて名を残した永田徳本(ながた とくほん)由来の徳本稲荷があります。社の看板を見てみると…
大濱羽城徳本稲荷とあります。長田重元は戦国時代、この地域の有力者で、その屋敷なのですから、堀や土塁に囲まれ館城みたいなものだったのでしょうか?大濱(大浜)羽城の遺構らしいものは残っておらず、この徳本稲荷の看板のみ、かつての羽城を偲ばせます。
東端城跡
安城市東端町にある、三河東端城は、直勝の兄・尚勝が築いた城です。天正十二年(1584)、尚勝の弟・永井伝八朗直勝が長久手合戦で敵将・池田恒興を討ち、恩賞として東端城を与えられました。城主だった尚勝は大浜上之宮神社の神官となって退きました。この時の石高は1,000石でした。
■東端城跡の住所■
安城市東端町中縄手13
ゆり姫の祠
永井直勝の妻(側室とも)・ゆり姫の祠が安城市根崎町西根にあります。ゆり姫は一説によると幡豆郡寺津村の豪族・大河内秀綱の娘といわれています。直勝の妻となった翌年、ゆり姫は夫の不在中、なぜか根崎村(安城市)で自害してしまいます。江戸時代に根崎陣屋が会った場所に、ゆり姫の祠が移され地元の方に供養されていいます。
■ゆり姫の祠の場所の住所■
安城市根崎町西根293−1
直勝の逸話
長久手合戦後、池田恒興の次男・池田輝政は家康の養女と結婚し、家康の義理の息子という立場になっていました。ある時、直勝と対面する機会があり、長久手合戦の父の様子を聞きました。その後、直勝に所領はどれくらいか?と尋ねると、『5千石です』という答えがあり、輝政は『私の父の首を取った褒美はたった5千石か…』と嘆いたとか。
そして家康に直談判し、直勝の所領を倍の1万石にあげてもらいます。この事に直勝は深く感謝したそうです。普通なら親の仇として憎むところですが、輝政も戦国武将。戦の恨みは戦のみということなのでしょうか。また器の大きな人物というふうにもとれますね。