小豆坂七本槍とは誰なの?人物と地元に残る話をまとめてみた

愛知県岡崎市字戸崎町~羽根町に小豆坂古戦場があります。ここは戦国時代の天文十一年(1542)と天文十七年(1548)の2度に渡り、尾張の織田氏と三河の松平氏、そして松平氏を支援していた今川氏が数回戦った古戦場です。

この合戦で織田軍で活躍した7人の武将がおり、後世、その人達を小豆坂七本槍(あずきざか しちほんやり)と呼ぶようになりました。その7人とは誰なのか?地元に残る逸話で分かりやすく説明してみます。

織田信光(1516~56)

織田信長の父・織田信秀の弟。つまり信長の叔父さんにあたる人です。尾張国守山城主。信長公記にも以下の様に記載してあります。

【備後殿御舎弟 織田孫三郎殿一段武篇者也】

訳:『信秀の弟、織田信光は一段と武勇に優れた武士であった』

信秀の死後、信長を支え萱津合戦、村木砦攻めなどで活躍。 清洲城を奪い信長に清洲城を渡すと、自身は信長より譲られた那古野城に入城。その後、弘治元年(1556)不慮の死を遂げる。

織田信房(?~?)

生没年そして前半生は不明。歴史に出てくるのは天文十一年(1542)の小豆坂の戦いから。通称は造酒丞(さけのじょう),造酒佐(さけのすけ)。小豆坂の戦いでは戦闘中に槍傷を受け負傷したが、信長公記には5人記載されている『優れた働きをした者』の1人に数えられています。

信秀死後は信長に仕え、弘治二年(1556)稲生の戦いでは森可成とともに奮戦し、土田の大原という武将を討ち取っている。桶狭間の戦いに参陣したとも言われますが、この頃から記録が途絶えます。

岡田重能(1527~83)

尾張国星崎城主。官職は長門守。通称は助右衛門。名は重善、直教とも。尾張源氏の流れを汲む山田氏の後裔といわれています。豆坂七本槍の一人に数えられてはいますが、信長公記にはどんな活躍をしたのかは記載されていません。信秀没後、信長の馬廻りとして仕え、本能寺の変後は、信長の次男・織田信雄の家老となります。

佐々政次(成吉)(?~1560)

尾張国井瀬木城主。(北名古屋市)。通称は隼人正。名は「勝通」とも。小豆坂合戦では弟・孫介と共に活躍し、兄弟で小豆坂七本槍に数えられています。永禄三年(1560)桶狭間の戦いでは織田信長の善照寺砦到着後、千秋季忠と共に兵300人程を率い、今川軍を攻撃し討死。

佐々孫介(勝重)(?~1556)

佐々政次の弟で成政の兄。名はは「成経」「勝重」とも。小豆坂合戦では兄の政次と共に小豆坂七本槍の一人に数えられています。弘治元年(1556)に那古野城内で城主の織田信光が家臣の坂井孫八郎に討たれる事件があり、信長の命で孫介は5人の討っ手と共に坂井を成敗します。翌年の稲生の戦いで討死。

中野一安(重吉)(1526年~?)

通称又兵衛。名は重吉とも。信長の馬廻で弓衆を指揮。妻は那古野城主・今川氏豊の娘。生まれた年は諸説あるものの、10代で小豆坂合戦に参陣して活躍しています。

信秀没後は信長に仕え、 元亀元年(1570)本願寺攻め、元亀三年(1572)浅井攻め、天正六年(1578)有岡攻めで戦功を重ねます。天正九年(1581)の馬揃えでは弓衆100人を率いて参加。本能寺の変後は秀吉、秀次に仕え、後に尾張国の熱田神宮近くに閑居。この時に住んだ場所が又兵衛屋敷と呼ばれています。

下方貞清(匡範)(?~1606)

尾張上野城主。信秀に仕え【古今無双の高名】と賞せられ感状を賜るくらい武勇に優れた人物でした。その後、信長に仕え各地を転戦。美濃国菅野大神山合戦や元亀元年(1570)姉川の戦いなどで一番の功績を挙げます。江戸時代になると松平忠吉に仕え80歳で清洲城で死去。

私の感想

私の小豆坂七本槍の感想ですが、記録が多く残る人とほとんど残っていない人に分かれるので、これ以外にも小豆坂合戦で多くの功績を残し人が他にもいるのではないかと思います。またこの七人ゆかりの地に絞って巡ってみるなど、史跡巡りのネタとしても楽しめそうですね。

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