西尾市長縄町玉屋に徳川家康の祖父である松平清康の仮葬地があります。なぜここに清康の仮葬地があるのか?その理由と経緯を簡単に説明します。
■松平清康仮葬地の住所■
西尾市長縄町玉屋17
実は暗殺された家康の祖父
松平清康は松平家七代目当主でした(家康は九代目)。この頃、尾張の織田氏と三河の松平氏は犬猿の仲。一進一退の合戦を繰り広げていました。そんな中、天文四年(1535)12月に松平軍が尾張守山(名古屋市守山区)の守山城まで進軍します。
しかしその陣中で清康は家臣のカンチガイで殺されてしまいます。その後、松平家は急速に力を失い、この出来事を後世に守山崩れ(森山崩れ)と呼ぶようになりました。
清康の遺体は家臣の大河内喜平が運び出し、自分の領地である現在の西尾市長縄町で荼毘に付し(火葬のこと)、この地に埋葬されたそうです。ちなみに清康の墓はこの地のほかにも複数あります。
岡崎市 大樹寺
岡崎市 随念寺
岡崎市 大林寺
そして現地
西尾市長縄町玉屋の松平清康公仮葬地の石碑。これは大正五年(1916)に建立されました。
石碑の中ほどをよく見てみると補修された跡があります。これは昭和二十年(1945)の三河地震で石碑が倒れ、その修復の痕跡です。
石碑の裏に墓
石碑の裏にまわると松平清康の墓があります。江戸幕府を開いた徳川家康の祖父の墓なので、もっと豪華にすればいいのに?と思いがちですが、この墓地を管理している泰平山大東院観音寺の住職・石原峰雪氏によれば、これが昔からのありのままの姿であり、後世の私達が安易に形を帰るべきではないとのこと。
地名にも意味があった!
あと松平清康公仮葬地の石碑がある西尾市長縄町玉屋の地名ですが、昔は玉屋ではなく霊屋(たまや)と呼ばれていたそうです。これは御霊(みたま)の意味で、戦国時代以前からこの地は神聖な信仰の場所となっていました。清康の遺体を埋葬した理由もこの神聖な場所だったからかもしれません。