佐久間盛政の墓といわれる索麻塚が西尾市吉良町の海蔵寺にある理由

愛知県西尾市吉良町の海蔵寺に意外な人物の墓があります。それが佐久間盛政の墓といわれる索麻塚です。

海蔵寺の場所

西尾市吉良町荻原大道通5

海蔵寺の地図

佐久間盛政とは

佐久間盛政は現在の名古屋市昭和区の生まれで、柴田勝家の甥にあたる武将です。鬼玄蕃(おにげんば)と称されるほど武勇に優れいました。江戸時代に書かれた佐久間軍記によると、身長が六尺とあり、これは約182cmになるので、かなりの大男だったことがわかりますね。(1尺=30・3cmで計算)

織田信長に仕えた武将でしたが、主に柴田勝家と共に各地を転戦、天正三年(1575)には勝家や前田利家と共に北陸地方に赴き活躍しています。しかし天正十年(1582)の本能寺の変後、勝家と羽柴秀吉の関係が悪化、天正十三年(1583)の賤ヶ岳合戦で秀吉方に敗れ、京都で最後を迎えました。

その後、盛政の娘・虎姫が豊後岡藩主・中川秀成の妻となり、その縁と虎姫の強い要望で大分県竹田市会々城北町に盛政の菩提寺・英雄寺があるのです。ではなぜ西尾市吉良町に盛政の墓があるのか?それには深い理由がありました。

索麻塚の理由

海蔵寺の墓所に刀で両断した様な墓碑があるのですが、これが索麻塚(さくまづか)といわれる、佐久間盛政の墓です。墓の前に西尾市教育委員会の看板が建っており、それには佐久間玄蕃盛政公碑とあります。碑?墓ではないの?

碑には索麻権現鎮座 荒神守護願主とあり、西尾市教育委員会の看板には民間に伝わってきた逸話が書かれています。それによると、天正十一年(1583)の賤ヶ岳合戦で敗れた盛政は京都で最後を迎えますが、家臣の鈴木八郎治が盛政の遺体をひそかに故郷である、現在の西尾市吉良町萩原に持ち帰り埋葬しました。八郎治は佐久間の文字を避け、索麻と刻み、自ら出家して供養したそうです。

この碑はもともとは海蔵寺ではなく、鈴木八郎治の屋敷があった北西の隅にあり、一抱えくらいの小さなお堂と、鈴木家の墓と共に立っていました。塚の下には甲冑や兜も埋められているといわれており、昭和の初め頃には、のぼりを立ててお祭りもしていたそうです。

周辺に住んでいた人々は索麻塚の事を『権現さん』と呼び、かつて塚があった西尾市立萩原小学校の南方一帯を佐久間屋敷といっています。現在でいう吉良町萩原割田や萩原大道通あたりでしょうか。そしていつの頃かお堂が取り壊され、それ以後、塚にあった墓碑や五輪塔などは海蔵寺に移され、しばらくは鈴木八郎治の子孫の方が墓の世話をしていましたが、その方も亡くなられ、今では無縁仏として祀られています。

私の感想

今回、佐久間盛政の墓といわれる索麻塚を訪れて思った感想は、盛政の人柄の良さというか、人徳みたいなものを感じました。なぜかというと、家臣や娘に慕われていたから、菩提寺の英雄寺や索麻塚が残っていると思ったからです。

佐久間盛政というと、武勇の人なので荒々しいイメージもありますが、人に親しまれる一面もあったのでしょう。この索麻塚が墓なのか塚なのかよくわかりませんが、今まで知らなかった盛政の一面を知る事ができたので、それだけでも収穫大でした。

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