高浜市の田戸渡船番所蹟(田戸の渡し跡)は、天正十年(1582)に起こった本能寺の変の時、徳川家康たちが領地に帰る伊賀越えの時、船で上陸した場所といわれる地です。
田戸の渡し跡の住所
高浜市田戸町7丁目7−28
徳川家康の伊賀越えルートは諸説あり、その終盤のルートにも諸説あります。この家康の伊賀越えは令和五年(2023)NHK大河ドラマ・どうする家康でも重要視され、これからも議論されていくと思いますが、その前に高浜市の上陸説の場所をチェックしてみましょう。
現地をチェック!
まずは現地案内看板をチェックします。これを見ると昭和三十一年(1956)まで対岸の亀崎と船で往来していた事がわかります。でも利用人数は1回で数人、1日数便と少なかったようです。
田戸渡船番所蹟(田戸の渡し跡)と周辺の地図。定説では伊勢国(現在の三重県)から船で渡り、日間賀島を経由して三河に上陸。その後岡崎城に向かったということなので、ここから上陸というのもうなずけますね。
石碑の側にもうひとつの石碑があります。記載されている文字は以下の通り。
要訳すると、石碑はかつて現在の石碑がある場所より西南約80mの場所にあって、昭和50年(1975)に現在地に移されたということですね。
他の上陸地と比較
徳川家康の伊賀越えでの三河上陸地はもうひとつ候補地があります。それが碧南市の大浜稲荷社です。直線距離だと約5.5kmほど。碧南市側の主張は大浜稲荷社近くにあった羽城主・長田重元が迎えたとのこと。
私の仮説ですが、もしかすると徳川家康一行は、伊賀越えの時に二手に分かれて岡崎城を目指したのかもしれません。そうすると上陸地が二ヶ所あってもおかしくないですね。もしくは影武者とか。想像は尽きません…
私の感想
この先、議論が進み徳川家康の伊賀越での上陸地についてはどうなるか?これも楽しみのひとつです。私の感想ですが、高浜市の田戸の渡し跡はローカルな史跡ではありますが、全国的に有名な徳川家康の伊賀越えゆかりの地ということで、戦国史が好きな方にはオススメの史跡のひとつだと思います。