戦国史の中でも永禄三年(1560)に起こった桶狭間合戦ほど謎が多く、人気がある合戦はないと思います。NHKでもほぼ毎年、桶狭間の戦いゆかりの番組を放映していますし、本屋に行けば、何かしらの桶狭間合戦の新刊がありますよね。
でもね?地元愛知県の郷土史レベルの歴史には、まだまだ全国区になりきれていない桶狭間合戦関連のハナシがゴロゴロしています。今回はそのうちのひとつ、桶狭間合戦時に信長が戦勝祈願しまくっていたという事実を検証してみました。
結論から言うと、尾張地方には信長が桶狭間合戦の時に戦勝祈願したといわれる寺社が5つあります。ではどこのどんな寺社なのか?この記事でチェックしてみましょう!
まずは熱田神宮
まず信長公記に記載してある、上知我麻神社神社(かみちかまじんじゃ)というのが現在の熱田神宮の事で、桶狭間合戦で勝利を収めた信長が、戦勝祈願のお礼に【塀】を寄進しています。それが現在に残る信長塀です。
現地案内看板によると、織田信長が桶狭間出陣の際、熱田神宮に願文を奏し、大勝したのでそのお礼に塀を寄進しました。これは現地案内看板にもありますが、これが信長が桶狭間合戦時に熱田神宮で戦勝祈願したという、いわれなんですよね。しかし、この熱田神宮以外にも戦勝祈願した神社が点在しているのです。
榎白山神社(押切城)
まずは名古屋市西区にある榎白山神社(えのきはくさんじんじゃ)。ここは現在でこそ神社なのですが、かつては押切城という城があった場所でもあり、その押切城の目の前を美濃路という街道が通っていました。桶狭間合戦、清洲城を出た信長は、美濃路を通り、まずこの城に入り、ここの白山神社で戦勝祈願したという事です。
その美濃路は現在も残っています。榎白山神社の前の県道がその名残で道幅は拡張されたのでしょうけれど、まっすぐの道がかつての街道を想わせますね。
■榎白山神社の住所■
名古屋市西区押切2丁目5−2
日置神社
次は名古屋市中区にある日置(ひおき)神社。桶狭間合戦時に織田信長が戦勝祈願で訪れ、勝利した後にお礼に松を千本植えたといいます。これが名古屋市西区松原の地名の由来です。
■日置神社の住所■
名古屋市中区橘1丁目3−21
法持寺
熱田神宮に近い白鳥山・法持寺も信長が戦勝祈願したといわれています。その理由は、日本武尊(やまとたける)の御陵(墓)を守る寺だったからから、武勇にあやかるつもりだったのでしょうか。
■法持寺の住所■
名古屋市熱田区白鳥1丁目2-17
秋葉山慈眼寺
そして5つ目は名古屋市天白区にある秋葉山慈眼寺。ここも信長が桶狭間合戦時に戦勝祈願をし、戦後にお礼をしています。こうやってみてみると、かなり広範囲に渡り、信長の足跡をたどることができますね。
私の感想
桶狭間合戦時の信長の戦勝祈願の寺社、いかがでしたか?私の感想ですが、こういったマイナーな歴史を調べることが郷土史レベルの歴史の面白さだと思います。
なぜかというと、こういった情報はインターネット社会となった現在、ウィキペディアにも載っておらず、また教育委員会や郷土史を顕彰している地元の歴史団体の情報として、限られた郷土史家、城郭研究家らが、共有しているだけだからです。
桶狭間合戦は今や全国区レベルの戦国史なのですが、地元の枠組みで見ると、まだまだ全国区になっていない話があるんですよね。また今回の寺社を繋いでいくと、信長が桶狭間合戦の時に通った道がわかります。つまり、熱田神宮から瑞穂区、天白区を通り桶狭間に向かったという事です。
もっと詳細なル-トは今後の研究でわかると思いますが、今回私が指摘したいのは、全国区の戦国史である桶狭間でも、地元レベルではまだ世に知られていない話があるという事です。ここに郷土史レベルの戦国の面白さがあると思います。