築城は平安時代といわれる知立市・三河八橋古城跡と夜泣石の場所と地図

知立市八橋町にある八橋葦香城跡公園は、平安時代(延暦13年(794)~文治元年(1185)/建久3年(1192頃)の頃に無量壽寺(むりょうじゅじ)を守るために築かれた村上氏の居城・八橋古城があったといわれています。

■八橋古城の場所の住所■

知立市八橋町城下62−1

>>八橋古城の場所の地図

知立市誌によると、かつて八橋村には2つの古城跡があり、字城山には村上兵部兼房の居城、もうひとつは村上判官兼利の居城とあります。そのうちのひとつの城跡が現在の八橋葦香城跡公園にあったということです。

現地看板

八橋古城跡

この付近は『城下』『登城』といった字名があり、かつて『城山』とも呼ばれた。近年までは土塁や堀の痕跡をとどめていたが、現在は曲輪の一部のみが畑地として残っている。言い伝えでは村上兵部兼房(むらかみ ひょうぶ かねふさ)という平安の武士の居城といわれる。

発掘調査により、古代の竪穴建物のほか戦国時代の堀や井戸などが検出され、十五世紀から十六世紀頃の城跡であることが明らかにされた。

今ここに『葦香城址』という石碑が建てられているが、葦香城は明治期の絵図に、ここより約五百メートル北の才兼池(さいかねいけ)の南西付近に記されている。

知立市教育委員会

発掘された堀跡

現地案内看板より。平成18年(2006)に行われた発掘調査では、堀跡と考えられる遺構が検出されました。ちなみにこの堀跡は現在では埋め立てられて見ることはできません。

八橋古城と葦香城は別の場所

八橋葦香城跡公園にある葦香(あしか)城阯の石碑。現地案内看板によると、この葦香城阯の石碑はここより約500mほど北にある、才兼池(さいかねいけ)の南西にあったそうです。ここでチェックしておきたいことは、八橋古城と葦香城は別の城ということ!

現地案内看板にもその事が強調されています。公園がある場所が八橋古城跡で、その北側、才兼池の南西(左下)にあったのが葦香城。ちなみに葦香城があったとされる場所は住宅地になっており、城の遺構は残っていません。

逢妻男川の高低差

これは八橋古城から北側にあった葦香城側を向いた画像。北には逢妻男川(あいづまおがわ)があり、その向こうに葦香城がありました。北を見ると逢妻男川に向けて低くなっており、八橋古城の北側を守る天然の堀だった様に思えます。葦香城からは南を守る堀代わりの川ですね。2つの城があったのは平安時代なので、川筋も変わっていると思いますが、水の流れはあったのでしょう。

城跡の石塔

葦香城阯の石碑の隣に古い石塔があります。愛知の城(山田柾之著・サンマーク出版)によると、大正七年(1918)に三河鉄道(現在の名鉄三河線)の工事の際に大量の人骨と五輪塔が出土した事が記されています。名鉄三河線は八橋葦香城跡公園(八橋古城)の北70mほどの場所を通っているので、もしかすると大正時代に出土した五輪塔の一部かもしれません。

夜泣石のエピソード

八橋葦香城跡公園(八橋古城)の南100mほどのところにある夜泣石。現地看板によると次の様ないわれがあります。昔、無量壽寺(むりょうじゅじ)の和尚さんが、 八ツ橋の城跡近くにあったこの石を境内の庭石にするため村人に頼んで運ばせた。その夜、和尚さんが寝付けないでいると、どこからともなく『しくしく』と泣き声が聞こえてきた。

その声をたどってみると、運んできた石が『もとの所に帰りたい』と言って泣いていた。これは大変だと思い翌朝村人に頼み元の場所に返してもらった。持ってくる時は重くて大勢で運んだのに、返す時は二人で軽々運ぶようにできたそうだ。これでこの石を夜泣き石と呼ぶようになったという。(知立の昔話より) 

>>夜泣石の場所の地図

私の感想

私の八橋古城の感想ですが、遺構は残っていないものの、近くにある夜泣石、鎌倉街道などとセットで訪れると楽しめると思いました。ちなみに同じ知立市にある今崎城址(来迎寺城)も築城は平安時代と考えられ、場所も近いことから八橋古城と関係があるのかもしれません。

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