井伊直盛も参戦した!名古屋市緑区桶狭間古戦場公園と周辺史跡レビュー

愛知県に桶狭間古戦場は2つありますが、そのうちのひとつである、名古屋市緑区側の古戦場公園と周辺史跡についてレビューしてみます。

>>名古屋駅から電車とバスで緑区桶狭間古戦場公園への行き方 

>>【緑区】桶狭間古戦場保存会公式サイト

豊明市側もそうですが、かつての桶狭間古戦場は現在では住宅地となって、キレイな街並みが広がっています。つまり大幅に開発が進んでいるという事です。

そんな中、住宅街に桶狭間合戦史跡が点在しています。では、どんな史跡があるのかチェックしてみましょう!

高根山

高根山は今川軍の先方で、遠州二俣城主だった松井宗信が陣を置いた場所と伝わります。高根山の標高は約54mあり、織田方の善照寺砦、中島砦を見渡せる場所でもありました。

【信長公記】によれば、信長が善照寺砦から中島砦へ移動しようとした時、家老衆から、『敵方にハッキリ見られてしまいます』と、引き留めている事から、この高根山から監視されていたことがわかります。

現在では景色はすっかり変わってしまったワケですが、名古屋駅方面も肉眼で見える高台にある事がわかります。ちなみにこの高根山の南に井伊直盛が陣を置いたといわれる巻山もあります。

>>高根山の地図

釜ヶ谷・信長坂

釜ヶ谷(かまがたに)は、織田軍が今川本陣に突撃する前に最後に待機していた場所です。

【信長公記】によると、『山ぎわまで軍勢を寄せた時、激しいにわか雨が石か氷を投げうつように降りだした』とあるので、この釜ヶ谷に織田軍が到着した時に天候も荒れ出したのでしょう。

信長は嵐の中を攻撃せずに止むのをジッと待っていましたが、その場所がココですね。

そして空が晴れるのを見て、今川本陣に突撃していますが、その時にこの坂を駆け上がったといわれ、現在では信長坂という名前が付いています。

>>釜ヶ谷・信長坂の地図

七ツ塚

七ツ塚は桶狭間の戦いで亡くなった人達を埋葬した塚です。桶狭間の戦いでは織田軍、今川軍合わせて多数の死者が出ました。一説によるとその数3500人ともいわれます。

今川義元を討った信長は、清洲城に帰る前に村人たちに命じ、山裾に沿って等間隔に七つの穴を一列に掘らせて、大勢の戦死者を埋葬させました。

もともとは7つあったみたいですが、時代の流れによって塚が無くなっていき、平成元年の区画整理の際に塚をひとつ残し、その一画に碑が建てられました。

現在では民家の裏側にあるので、参拝する際には静かに参拝しましょう。

>>七ツ塚の地図

桶狭間古戦場公園

【緑区】側によると、この周辺一帯が桶狭間合戦の中心地であり、今川義元が討死した場所といわれ、【豊明】側によると織田軍の佐々政次・千秋季忠隊300名が討ち取られた場所といわれ、どちらにせよ激しい戦闘があった場所です。

現在では古戦場公園として整備され見るものはいくつかあります。

まずは織田信長と今川義元の銅像。桶狭間合戦から450年後に当たる2010に建立されました。

織田信長(上)と今川義元(下)共に甲冑を着用した銅像です。

そして公園内には、桶狭間合戦のジオラマがあります。織田軍の城・砦が水色、今川軍が赤色の石で示してあり、合戦時の城・砦の配置の様子がよくわかります。

田楽坪のねず塚から出土した「駿公墓碣」(すんこう ぼけつ)と刻まれた建立年は不明の墓碑です。

駿公とは、『駿河の優れた人』という意味で、今川義元を指した言葉と思われることから、これが今川義元の墓といわれてます。

今川義元の首を洗ったという伝説がある泉。もともとこの地は湧き水が豊富で、泉の中心に桶を置くと湧き水の勢いが強く、桶がクルクルを回った事から、『桶回る狭間』⇒『桶狭間』という地名の由来になったとか。

このほかにも今川義元が馬をつないだ杜松(ねず)の木など、合戦ゆかりの史跡があります。

>>桶狭間古戦場公園の地図

戦評の松

今川軍の先鋒であった瀬名氏俊が義元到着前に諸将を集めて戦評定(作戦会議)を開いたといわれる場所です。

現在の松は三代目ですが、初代の松は樹齢400年近くあり、直径が1m以上もある大きなものでしたが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風で枯れてしまいました。現在ではバス停の裏に石碑が建立されています。

>>戦評の松の地図

巻山(井伊直盛陣跡)

現在、名古屋市立桶狭間小学校が建つ場所が、井伊直盛の陣があった巻山といわれています。

現在は陣跡の遺構はありませんが、桶狭間古戦場保存会による案内看板が建つほか、高台にあり、東南側から長福寺方面がよく見えます。この井伊直盛陣地跡については、別の記事でレビューしていますので参考にして下さい。

>>地図で説明!桶狭間古戦場の井伊直盛陣跡の場所と感想

桶狭間神明社

桶狭間神明社は、今川軍の先鋒だった瀬名氏俊が戦勝を祈願して酒樽を奉納した神社です。

この桶狭間神明社の起源は南北朝時代までさかのぼります。14世紀中頃、南朝の落ち武者によって桶狭間村が開拓されたといわれ、その時に村人によって建立されたと伝わります。

現在でもこの地区の氏神として、正月の初詣など地元の人達で賑わいます。

>>桶狭間神明社の地図

長福寺

長福寺は桶狭間に到着した今川義元本陣に酒肴を献上した寺といわれ、また合戦後にここで義元の首実検が行われました。

今川義元公首検証之跡の石碑。この近くで首実検が行われました。

長福寺の境内には14世紀中ごろに南朝の落武者が住み着いた時、村人の貴重な生活水源だった泉が残り、現在でも水が湧いています。

ちなみに長福寺は、毎年5月中旬に行われる桶狭間古戦場祭りのメイン会場です。この日は愛知県内の手作り甲冑の連盟組織・愛知戦国甲冑隊の武者行列をはじめ、史跡散策会、歴史講演会など様々なイベントが行われます。

>>長福寺の地図

瀬名氏俊陣跡

今川軍の先鋒だった瀬名伊予守氏俊の陣跡です。実際にはもう少し後方にあったみたいですが、土地の事情でしょうか、現在の場所に石碑と案内看板が設置されています。

氏俊は先鋒として、義元本陣の設営と地域の下準備などで、今川軍本隊より数日前にはこの桶狭間の地に来ていたみたいです。

ちなみに瀬名氏俊は徳川家康の正室である瀬名姫の父ではありません。(瀬名姫の父は関口氏です)。

>>瀬名氏俊陣跡の地図

今川義元本陣

名古屋市緑区側の主張による今川義元本陣があった場所です。実際にはもう少し後方の高い場所にあったのではという指摘もありますが、大体この周辺に布陣していたと思われます。

現在では住宅地として開発されていますが、おけはざま山・今川義元本陣跡の石碑と案内看板が建っています。

石碑後方の高台から西側を眺めるとこんな感じです。桶狭間合戦当時と景色は違っていますが、高い場所から低い平地に向かって景色が広がっているのがよくわかりますね。

>>今川義元本陣跡の地図

桶狭間古戦場祭り

最後にこれは史跡ではありませんが、毎年5月中旬くらいに長福寺をメイン会場とした桶狭間合戦の慰霊祭である桶狭間古戦場祭りが行われます。

前述しましたが、この日は史跡散策会や武者行列などいろんなイベントもあるので、史跡巡りと歴史祭りを両方楽しむ事ができます。

毎年祭りの日にちは違うので、イベントサイトなどで日にちをチェックしてから訪れましょう。

>>今年の【緑区】桶狭間古戦場祭りの日にはこちら

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