織田信長が今川義元本陣に突撃する直前まで潜伏していた武路釜ヶ谷

名古屋市緑区武路町に釜ヶ谷(かまがたに)という場所があります。ここは永禄三年(1560)の桶狭間合戦の時、織田信長本隊が今川義元に攻撃を仕掛けるまで潜伏していたといわれる場所です。

■武路釜ヶ谷の住所■

名古屋市緑区武路町2808

>>武路釜ヶ谷の地図

アクセス方法

武路釜ヶ谷への行き方を説明します。電車でアクセスするなら最寄り駅は名鉄本線・有松駅です。有松駅から徒歩だと所要時間は約20分ほど。桜花学園大学の駐車場の前に看板があります。

車でアクセスする場合、観光用の駐車場はありませんので、駐車可能な然るべき場所に車を停めてアクセスしましょう。

信長公記にはこう書いてある

織田信長を研究する上で第一級資料とされている信長公記(しんちょうこうき)には、桶狭間合戦で織田信長が今川義元本陣を攻撃する時、次のように記載されています。

山ぎわまで軍勢を寄せた時、激しいにわか雨が石か氷をなげうつように振りだした。北西を向いて布陣した敵には、雨は顔に降りつけた。味方には後方から降りかかった。沓懸の峠の松の根の方に、二抱え三抱えもある楠の木が、雨で東へ降り倒された。余りにも幸運なことに、「この合戦は熱田大明神の神慮による戦いか」と皆が言った。
 
空が晴れたのを見て、信長は槍をおっ取り、大音声を上げて「それ、掛かれ、掛かれ」と叫ぶ。黒煙を立てて打ち掛かるのを見て、敵は水を撒くように後ろへどっと崩れた。弓・槍・鉄砲・幟・指し物、算を乱すとはこのことか。義元の朱塗りの輿さえ打ち捨てて、崩れ逃げた。『義元の旗本はあれだ。あれに掛かれ』と信長の下知。未の刻、東へ向かって攻めかかる。敵は、初めは三百騎ばかりが丸くなって、義元を囲んで退いたが、二・三度、四度、五度と引き返し、打ち合い切り合ううちに、次第に人数が減り、遂には五十騎ほどになった。

(現代語訳信長公記 新人物往来社 中川太古訳 より引用)

この山ぎわというのが、名古屋市緑区武路町の釜ヶ谷と考えられています。あと注目したいのが織田信長が今川義元本陣を攻めたときの天気。信長公記には雨の中を攻めたのではなく、空が晴れてから義元本陣を攻めていると書かれています。

信長坂

桜花学園大学の南は山になっています。空が晴れてから今川義元本陣を攻めた信長は、この坂を駆け上がり義元本陣に迫ったといわれています。そのことから信長坂という名前が付きました。

※信長坂は桜花学園大学の敷地内にあるので立ち入る際には大学側の許可が必ず必要です。

信長坂の遠景。フェンス越しに坂が登っている様子がよくわかります。

頂上はテニスコートと畑になっていますが、今川義元本陣といわれる場所を見ることができます。桶狭間は近年の住宅開発で削平されてしまいましたが、大まかな地形は残っているんです。

私の感想

私の武路釜ヶ谷の感想ですが、確かに山際みたいな場所にあるので信長公記の記述に当てはまるのかなと思います。

あと釜ヶ谷の見学にかかる所要時間は10分もあれば十分だと思うので、この史跡単品ではなく、周辺の史跡もセットにするとよいでしょう。

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