名古屋市緑区の桶狭間古戦場にある戦評の松(ぜんぴょうのまつ)は、永禄三年(1560)の桶狭間合戦の前、今川軍の先鋒だった瀬名氏俊が諸将を集め、戦評定(戦の会議)を行った場所といわれています。また戦後、今川義元の幽霊の目撃場所でもあります。
■戦評の松の場所の住所■
名古屋市緑区有松町大字桶狭間巻山9
織田信長の一代記・信長公記(しんちょうこうき)によると、今川義元は5月17日に沓掛(くつかけ:愛知県豊明市)に陣を構え、尾張への侵攻を進めます。
その今川義元が来る以前、瀬名氏俊が先鋒として尾張へ入り、義元の本陣を築いたり、周辺の安全を確認したりしていたのでしょう。
戦評の松への行き方
戦評の松へのアクセス方法で簡単な行き方があります。それは名古屋市緑区の桶狭間のJAみどり桶狭間支店を目指すと良いです。
その理由はJAみどり桶狭間支店の隣に戦評の松があるからです。
義元公戦評の松の石碑。これを見ると今川義元が戦評定をしたと思われがちですが、伝承では瀬名氏俊です。
これがその戦評の松ですが…なんか若い?
じつは伊勢湾台風(昭和三十四年:1959)で初代の戦評の松は枯れてしまい、現在は三代目が植えられています。
東海道の松並木もそうですが、松ってマツクイムシが繁殖しても枯れてしまいます。だから数百年の現存の松なんて貴重ですね。
ところで石碑の裏に松の残骸みたいなものがあります。もしかすると初代、二代目の松の倒木の名残りなのかもしれません。
今川義元の亡霊伝説
江戸時代、刈谷(現在の刈谷市)に住んでいた魚屋の男が、旧暦の5月19日の夜、戦評の松があった大池の近くを通ると、なんと白馬に乗った今川義元の亡霊を見ました。その時、この事を誰にも言うなと口止めされましたが、男は隠しきれず、他人に漏らすと急に熱病にかかって亡くなったといわれています。
それ以後、村人たちは夜は大池の近くを通らなくなったといわれています。
私の感想
現在植えてある戦評の松は三代目ということで、実際のものとは違うのですが、これも桶狭間合戦ゆかりの史跡なのかなと思います。
また地形的に坂の下にある盆地みたいな場所なので、村人たちの憩いの場だったのかもしれません。
この戦評の松だけだと見学の所要時間は約5分とかなので、桶狭間古戦場公園や長福寺、または観光案内所とセットで訪れてみましょう。