丸根砦は鷲津砦とともに桶狭間合戦時に今川方だった大高城を包囲していた織田方の砦のひとつです。守将は佐久間盛重でしたが、松平元康により攻め落とされました。
■丸根砦の場所の住所■
名古屋市緑区大高町丸根29
現地案内看板
大高城が今川義元の手に落ちたあと、織田信長によって大高城を包囲するように築かれた砦の一つで、永禄二年(1559)大高城の東側約八〇〇m、鳴海から伸びる丘陵の先端に築かれた。当時の今川方の基地である豊明の沓掛城から大高城への支援路を見下ろす位置にあり、現況は東西三六m、南北二八mの砦の周囲に幅3.6mの外堀をめぐらしている。
桶狭間の戦いのときには、佐久間盛重を将とした織田方が立てこもったが、大高城への兵糧入れを命ぜられた松平元康(徳川家康)が鉄砲を用いて攻撃し、激戦の後守備側は全滅したといわれる。
大高城跡とともに昭和十三年国の指定史跡とされている。現在砦跡には、『丸根砦』の石碑が立つ。
名古屋市教育委員会
現地案内看板で説明されている丸根砦の範囲を示した地図。これを見ると本当に丸いですね。
いざ中へ!
名古屋市教育委員会の案内看板から左手に入ると登れる階段があります。が、ちょっとその前に見ておきたいのが堀跡。教育委員会の看板に記載がある外堀がこれだと思います。
砦の頂上には丸根砦の攻防戦で亡くなった人達を供養する慰霊碑があります。たまにブログに『これが丸根砦の石碑です!』みたいにアップしてる人がいますが、これは砦の石碑ではありません。
砦の石碑は慰霊の下にあります。まず史跡散策の案内看板が見えますが、それの向かって右側の斜面を下りていきます。
これが丸根砦阯の石碑です。慰霊碑からだと後ろを向いているのでよく分からんです。
石碑の次は外!
丸根砦の石碑を見たら先程の史跡散策看板の反対側から外に出てみましょう。
すると丸根砦の南側に出ますが、ここにも名古屋市教育委員会の説明看板が立ってます。入口の看板に書いてあることとほぼ、同じなのでここでは割愛します。
それよりも南の看板からJRと新幹線の線路が見えます。逆にいえば新幹線とJRの車窓から丸根砦が見えるというわけです。
実際に乗ると見えました!あのこんもりした森みたいなのが丸根砦です。ちなみにJRで豊橋、蒲郡、刈谷、岡崎方面から名古屋に向かうと、右手の車窓から丸根砦がハッキリと見えます。
あと南の看板の近くにもうひとつ看板があるのでこれも合わせて見ておきましょう。
そして高低差
南の看板からそのまま帰らずに逆、つまり東へ周ります。ここは民家がありますが、私有地ではない細い道を歩くことができるのでそのまま進みます。
するとかなり下がっているというか崖の上に丸根砦があることが分かります。眼下に鳴子団地大高線の道路が通っていて、その向こう側が大高緑地公園です。名古屋市教育委員会の説明看板に次のように記載があります。
当時の今川方の基地である豊明の沓掛城から大高城への支援路を見下ろす位置にあり
ということは、大高緑地公園と丸根砦の間を走る鳴子団地大高線の道路が、かつての沓掛城と大高城を結んでいた街道なのでしょう。その街道を遮断する位置に丸根砦が築かれたということがわかります。
私の感想
私の感想ですが、もし車で訪れた場合でも丸根砦は大高城や鷲津砦とセットで徒歩で巡る事をオススメします。その理由は距離感と高低差を味わう事ができるからです。各砦の距離感は、兵糧攻めにしていた包囲網の距離感ですし、高低差は実際に攻め落とす際、甲冑を着て進軍していた、もしくは攻め寄せた時の臨場感をある程度体験できます。
結果からいえば高低差が激しい場所であり、上り下りも何度も体験するわけですが、この地形を知る事、そして味わう事も城巡りの醍醐味だと思います。