名古屋市熱田区の上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)は、永禄三年(1560)の桶狭間合戦の時、織田信長が立ち寄ったといわれています。織田信長を研究する上で第一級資料とされている信長公記(しんちょうこうき)には、桶狭間に出陣する時の様子が次の様に記載されています。
予想通り、夜明けの方、佐久間盛重・織田秀敏から「すでに鷲津山・丸根山の両砦は今川方の攻撃を受けている」との報告が入った。この時、信長は「敦盛」の舞を舞った。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」と歌い舞って、「法螺貝を吹け、武具をよこせ」と言い、鎧をつけ、立ったまま食事をとり、兜をかぶって出陣した。
この時従ったのは、お小姓衆の岩室長門守・長谷川橋介・佐脇良之・山口飛騨守・賀藤弥三郎。これら主従六騎、熱田まで三里を一気に駆けた。辰の刻に上知我麻神社の前から東を見ると、鷲津・丸根の両砦は陥落したらしく、煙が上がっていた。
※現代語訳信長公記 新人物往来社 中川太古訳
辰の刻とは午前8時前後。また原文では上知我麻神社ではなく、源太夫社という記載です。
戦国時代と今では場所が違う
上知我麻神社は熱田神宮の南門近くにありますが、戦国時代と現在では場所が違います。これは現地看板ですが、これにも現在地から約200m程南に鎮座していたとあります。今の上知我麻神社神社は熱田神宮境内にありますが、もとの場所、つまり戦国時代当時の場所はもっと南側でした。なぜ移転されたかというと、国道1号線が通ることになり、上知我麻神社も移転されることになったのです。
元の場所に行ってきた
現在の上知我麻神社より南に約200mのところには、この事を示す看板が建っています。
実はこの場所、江戸時代の東海道と熱田神宮の参道の分岐点でもありました。この画像で見ると上(東)から降りてきて、左(北)に行けば熱田神宮、右(南)へ行けば七里の渡しに行くことができます。
赤の道が東海道、そして青の道が熱田神宮の参道です。その分岐点に上知我麻神社がありました。
道の分岐点なので道標がありました。東西南北、どちらに進めばどこに行くという事がわかります。
現地看板より。尾張名所図会『源太夫社(上知我麻神社)』。これを見ると多くの人で賑わっていた様子がわかります。◯の部分に道標があります。
ちなみにかつて上知我麻神社があった場所には、ほうろく地蔵が建立してあります。これも目印です。
桶狭間合戦でのポイントは?
さて、上知我麻神社ですが、桶狭間合戦ではここから東を見ると織田軍の丸根砦と鷲津砦が見えたとあります。しかし実際には東ではなく南に丸根砦と鷲津砦があるのです。この方角の違いが今川義元の本陣跡、または討ち死にした場所の謎を深めることになるのですが…私の感想ですが、この場所は熱田神宮からも徒歩での所要時間は約5分なので、熱田神宮に参拝した時はセットで巡ってみるとよいと思います。