東浦町森岡飯喰場の地名の由来は戦国時代にあった!読み方と理由を解説

知多郡東浦町盛岡に飯喰場(いくいば)という地名があります。場所的には東浦町立森岡小学校や東浦町立森岡西保育園の近くです。また石ヶ瀬川を挟んですぐ北側には愛知県立大府高等学校もあります。※飯喰場の読みは いくいば

ちょっと変わったこの飯喰場という地名、実は戦国時代の織田信長ゆかりの地名という事をご存知ですか?ではどんなゆかりがあるのか?その歴史を分かりやすく簡単に説明します。

織田と今川の戦い

話は天文二十三年(1554)にさかのぼります。当時、尾張(愛知県西部)に勢力を拡大していた織田は駿河・遠江(静岡県)を支配下に納めた今川氏と一進一退の攻防を繰り返していました。

なかなか決着がつかない中、今川氏が考えた作戦は織田の同盟者である知多半島の水野氏を攻めることでした。そこで鴫原城(しぎはらじょう:知立市)を攻め落とし、そこを拠点にして水野氏を攻めるため村木砦(むらきとりで)を築いたのです。

織田信長の同盟者である水野氏は、居城・緒川城の目と鼻の先に今川軍が村木砦を築いたことに驚きます。しかし単独で今川氏と戦う力がない水野氏は、織田信長に救援を要請。信長も敵ばかりでしたが、舅(しゅうと)の斎藤道三から兵を借り、那古野の留守を頼むと自ら村木砦に向かいます。しかし今川に味方した寺本城(知多市)の花井氏に街道を封鎖され、やむなく嵐の夜に海路で水野氏の緒川城に進軍しました。

翌朝から織田・水野連合軍は今川の村木砦を攻め続けます。この時、信長は自ら火縄銃を放ち村木砦を攻め立てたと信長公記には書かれています。戦は辰の刻(午前8時頃)から始まり、申の刻(午後4時)頃には織田・水野連合軍の勝利となりました。

合戦後、信長は本陣に織田軍を集め、涙を流しながら合戦の苦労を労いました。その場所が現在の知多郡東浦町盛岡飯喰場だったといわれています。

これが現地

かつて織田信長が本陣を移したといわれる飯喰場ですが、現在では閑静な住宅地。森岡新池公園に飯喰場ゆかりの地名の由来が書かれた看板が立っています。

>>飯喰場の場所の地図

 飯喰場(いくいば)

 このあたりの飯喰場という地名は、戦国時代にあった村木砦の戦いに由来している。天文二十三年(1554)今川軍が現在の字取手の地に築いた砦を織田信長・水野信元の連合軍が攻め落とした。これを村木砦の戦いという。

 戦いの後、信長は兵にねぎらいの言葉をかけ、戦勝祝いの酒食をしたことからついたと伝えられる。また近くには、この戦いの死者を葬ったところもあり、首塚と呼ばれている。

 平成十二年十二月 東浦教育委員会

平成十二年に建てられた東浦町教育委員会の看板。ちなみに戦死者を葬った首塚は現在では残っていません。また戦勝祝いの酒盛りとありますが、飯喰場(所)という地名から合戦後に御馳走も振る舞われたのでしょうか?

信長公記の記載

この村木砦の戦いについて信長公記には次のように記載してあります。

 信長のお小姓衆の歴々も数知れず負傷 討ち死にし、目も当てられぬ有様だった。辰の刻に攻撃を始め、申の刻まで攻め続けて、思いどおりの決着となった。しかし信長は、本陣に帰ってから、部下の働きや負傷者 死者のこと、あれこれとなく言って、感涙を流したのであった。

現代語訳信長公記 中川太古 訳 新人物往来社

私の感想

私の感想ですが、織田信長ファンは是非、この飯喰場と村木砦をセットで巡るのをオススメします。その理由は、この村木砦の戦いは信長公記にも書かれている合戦ですし、織田信長が初めて鉄砲(火縄銃)を使用した合戦といわれているからです。

桶狭間の戦いから6年前で、まだ織田信長が尾張すら統一できてない時代の史跡。郷土史レベルの歴史史跡ですが、信長を知る上で重要な合戦だったと思います。

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