一宮市立開明小学校は織田信長の弟・織田信治の野府城跡だった!

一宮市立開明小学校は野府城という城跡に建っています。城主は織田信長の弟・織田信治という武将です。織田信治は織田信秀の五男とも七男ともいわれる人物で、母親の名前をはじめ、詳細はよく分かっていません。兄である織田信長に従い、野府城主となりました。

■野府城の場所の住所■

一宮市開明桝井戸85

>>野府城の場所の地図

元亀元年(1570)織田家は近江(滋賀県)の浅井氏、越前(福井県)の朝倉氏と戦っていました。現在の滋賀県大津市に織田軍の宇佐山(うさやま)城があり、森可成という武将が守っていたのですが、そこに浅井・朝倉連合軍が攻めてきたのです。

その時、織田信治は軍勢を率いて宇佐山城に入り、浅井・朝倉連合軍と戦いましたが討ち死にしてしまいました。26歳でした。野府城はその後、尾張藩初代藩主・徳川義直に仕えた武藤氏が居を構えたそうです。

遺構は無くとも地名は残る

野府城については一宮市立開明小学校の前に石碑と案内看板が建っているのみで、城の遺構などは残っていません。しかし周辺には城郭関連地名が色濃く残っています。

城郭関連地名とは、城に関する地名(字名)です。一宮市立開明小学校の周辺には圦西郭、圦東郭、運閑寺曲輪、枡井戸というかつての城ゆかりの地名が残っています。また一宮市教育委員会のまとめによると、野府城の規模は東西約300m、南北約200mだったといいます。

織田信治は織田信長の弟だったので、もし宇佐山の戦いで討死しなければ、日本史にどの様な影響を与えたのか?想像の範囲ですがそれも歴史の楽しさだと思います。

私の感想ですが、今回紹介した城郭関連地名はマイナーな城跡を巡る時に参考になるポイントのひとつだと思います。

例えば車を運転してて赤信号で止まった時、信号名などをよく見るとその土地の字名が信号名になっていたりするんです。

また城の遺構は残ってなくとも、地名は歴史となって残るということの分かりやすい例だと思います。

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