一宮市萩原町、西萩原町の天神社はかつて川の渡し舟の発着場でした。現在の日光川はかつて木曽川の本流で、天正十四年(1586)の大洪水で川筋や川幅も変わり、現在の様になったといわれます。
■天神の渡し跡の住所■
一宮市西萩原2252
広かった木曽川
現在、2つの天神社の間を流れるのは日光川ですが、かつてはここに木曽川が流れていました。また川幅も、もっと広かったのです。
南側の天神社に建立されている石碑。文字を起こしてみます。
今の日光川が木曽川の本流であった頃、安土桃山時代から江戸時代へと移る頃の美濃路の渡し跡。当天神社と対岸にある尾西市・天神神社との間にあったとされる。この渡しの辺りは萩原川とも云った。
天正十四年(1586)の大洪水以降、主要流路が現在のように起に方に移り、萩原川は川幅も狭まって板橋となり、渡しも起側に移った。その間の経緯は、起宿本陣加藤家文書中の天正十九年と推定される豊臣秀吉四奉行からの『萩原船頭給継目証文』等によって知られよう。
江戸時代終わり頃の『名区小景』には、萩原川に架かる板橋が見える。 織田信長が初めて斎藤道三と冨田・聖徳寺で会見した帰り、道三がこの渡しまで見送ったとも伝えられる。江戸時代には、東海道と中山道とを結ぶ脇往還として美濃路は繁栄し、萩原宿や起宿も賑わいを見せた。徳川家康が関ヶ原の戦いから凱旋して通ったので御吉例街道ともいわれる。
平成十五年(2003)10月建之
一宮市教育委員会
宮町納税組合
もう1度位置関係
2つの天神社の北西にかつての聖徳寺跡があります。この天神社間が木曽川なら、ここがかつての尾張と美濃の国境だったのでしょうか。
私の感想ですが、濃尾平野は平地が広がっているので田畑は作りやすいのですが、洪水の度に川筋や川幅が大きく変わっていたのだなと思いました。そう考えてみると、城址近くの川も戦国時代のままという訳ではなく、川筋や川幅も異なるケースが多いのでしょう。