信長公記にやたら出てくる一宮市ゆかりの武将・長谷川秀一

長谷川秀一(はせがわ ひでかず)という武将、あなたは知っていますか?

彼は現在の愛知県一宮市北方町出身の戦国武将で、一宮市立北方中学校の横に彼の屋敷跡の石碑が建っています。

秀一は織田信長に小姓として仕え、その後、武将というより側近の奉行みたいな形で、歴史に名を残した人物です。

織田信長の一代記である、信長公記を読んでいると、ある時期から重要な場面で彼の名前が出てきます。

では、どんな働きをした人物なのか?全部詳しく書くと、それだけでかなりの文字数になってしまいそうなので、ここでは長谷川秀一が行った事を箇条書きでチェックしてみましょう!

・子どもの頃に信長の小姓として召し抱えられたそうな

・最初の働きは天正三年(1575年)に長島城復旧工事に従事する石運びの宿の手配

・天正七年(1579年)の安土宗論では浄厳院の警備担当の一人になった

・野々村正成と共に佐久間信盛追放後の近江の栗太郡・野洲郡の代官を務めた

・天正十年(1582)に武田征伐に従軍した

・本能寺の変直前、家康らを境見物の案内役を務めた

・その後の伊賀越えの末、尾張国熱田まで家康たちと一緒に逃げた

・小牧長久手合戦では羽柴秀次隊で従軍したが、長久手で徳川に攻撃され撤退

・天正十三年(1585年)紀州征伐、天正十五年(1587年)九州征伐にも参陣。

※この頃には羽柴姓を与えられ「羽柴東郷侍従」を名乗っていた

・天正十八年(1590年)、小田原征伐に従軍して山中城攻撃を兵3,000で攻撃

・文禄の役で朝鮮に渡るも現地で亡くなる

とまあ、信長から秀吉に仕え、そして家康とも行動を共にした武将という事で、いろんな有名なイベントに参加しておられます。

そんな武将が愛知県一宮市出身という事なのですが、地元の人というか、愛知県の戦国ファンですら彼が愛知ゆかりの人物という事も知らないのでしょうね。

そのくらい知名度が低い長谷川秀一ですが、石碑が建立されているだけでも、今後顕彰される可能性がありますね。

ゴメン場所違うわw

長谷川秀一の旧居跡の石碑は、一宮市立北方中学校の脇に建立されています。これは彼が生まれた屋敷の石碑といわれていますが、実はもともとこの場所ではなく、国道22号線の向かい側から移転されたものです。

もともとこの石碑は、一宮市北方町の下渡り公民館がある場所にあったものを、北方中学校の脇に移転したんです。

なので長谷川秀一の生誕地は、現在の北方町下渡り公民館周辺という事なんですね。

■北方町下渡り公民館の住所■

一宮市北方町北方東渡り

下渡り公民館の地図

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