愛知県一宮市の浮野(うきの)古戦場は、永禄元年(1558)清洲城の織田信長と岩倉城の織田信賢が戦った古戦場です。この戦を浮野の戦い、もしくは浮野合戦と言います。
■浮野古戦場の住所■
一宮市千秋町浮野海道23
尾張統一に王手!
信長が家督を継いだ頃、尾張国には8つの郡がありました。そのうち上四郡を岩倉城を拠点としていた織田伊勢守家が支配していました。そして下四郡を清州織田氏で大和守家である信長が支配していたのです。
永禄元年(1558)7月12日、信長は兵2,000で岩倉城を攻めるため背後にあたる浮野に出陣します。すると岩倉城からも兵3,000で迎え撃ってきたので合戦になりました。これが浮野合戦です。
結果、信長が勝ち、信長公記によると岩倉方は1,250人以上の戦死者を出して岩倉城に引き返しますが、この戦いで勢力が弱まり、翌年の永禄二年(1559)に岩倉城は落城してしまい、信長によって尾張国がほぼ統一されたのです。歴史を見てみると、信長による尾張統一の最後の大戦になった戦ですね。まあ、その翌年に桶狭間合戦が起こるのですが…
弓と鉄砲の一騎討ち!
私の感想ですが、この戦いで注目したいのが武将による一騎討ちがあったという事。戦国時代の戦は基本的に集団戦で、大勢VS大勢で戦います。そんな中、一騎討ちというと三国志みたいな戦に思えますよね。まあ、一騎討ちが無かったワケではないと思いますが、有名な武田信玄と上杉謙信の一騎打ちは創作ともいわれていますから。
しかしこの浮野合戦での一騎討ちは信長公記に記載されており、詳細を見てみると、実に細かく書かれています。では、そんな一騎打ちの内容を見てみましょう。
まず一騎討ちが起こったタイミングですが、信長が岩倉の信賢軍を攻めたてて、信賢軍の敗走が始まった頃です。信賢軍(岩倉方)の武士・林弥七郎が退こうとするのを、信長軍(清洲方)の橋本一巴(はしもと いっぱ)が追いかけます。
林弥七郎は浅野という村の武士で弓の名人。そして橋本一巴は信長の鉄砲の師匠でした。
この2人は知り合いだったらしく、林弥七郎は一巴に『助けてはやれないぞ』と言うと、一巴も『分かっている』と応じます。そして弥七郎は【あいか】という、四寸(約12cm)ほどもある矢尻を付けた矢を一巴の脇の下へ深々と射立てます。
しかし一巴も負けてはおらず、弾丸2発を込めた鉄砲を肩に当てて放ち、弥七郎も倒れ伏します。その後、前田利家の弟・佐脇良之が弥七郎に攻めかかりますが、逆に左の肘(ひじ)を鎧の籠手ごと切り落とされます。しかしひるまずに弥七郎に攻めかかり倒しました。信長公記の著者・太田牛一は林弥七郎の弓と大刀の手練(技術)は見事であったと称賛しています。
現在の古戦場
そんな浮野合戦があった場所は、現在、古戦場跡地として整備されています。
合戦で亡くなって人達を祭った塚。この地が激戦地だったそうです。
浮野合戦に関する詳しい資料があるので、必ずチェックしておきましょう。(無料)
これが周辺の様子。畑が広がり民家が点在しており、のんびりした風景ですね。かつて激戦があった戦場とは思えない感じがします。
感想
私の感想ですが、一宮市の戦国史跡を巡る時、この浮野古戦場もチェックしておくことをオススメします。なぜかというと浮野合戦は信長公記にも記載がある有名な合戦だからです。また弓と鉄砲の一騎討ちは戦国史でも珍しいもので、他に聞いたことがありません。そして橋本一巴、佐脇良之の活躍も多く残されていないので、両名の貴重な合戦とも言えるでしょう。
浮野古戦場は車がないと訪れるのに難しいですが、信長ファンはもちろん、戦国史に興味がある人はチェックしておきたい史跡のひとつだと思います。
おまけ
最後に浮野古戦場がある浮野町は養鶏所が有名で、養鶏所直営の卵を販売している店があります。それがうきうき村です。店内には養鶏所から直送された新鮮な卵のほか、産直の野菜、そして卵料理のレストランもあります。
私も浮野町の近くを車で通った時などは、必ずといっていいほど立ち寄る店です。このうきうき村も浮野古戦場とセットでチェックしてみてください。
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