岩倉市の岩倉城址は戦国時代、尾張の上四郡を治めていた織田伊勢守家の城跡です。織田信長の織田家は大和守家。岩倉城は伊勢守家で同じ織田氏でも仲が悪く敵対していました。信長に攻め落とされた岩倉城は現在どうなっているのか?早速現地に行ってきました。
■岩倉城の場所の住所■
岩倉市下本町城址122
まずは中心部
まずは岩倉城近くで下本町城址という信号を発見。これは地名ですね。
岩倉城址の石碑の後ろには、織田伊勢守城址という石碑と不動明王像が立ってます。
城と城下町の復元想像図
これは現地案内看板にある岩倉城の復元図。かつては二重の堀に囲まれていた様でその様子を描いています。周辺にあるのは家臣団の屋敷でしょうか?
こちらも現地にあった復元図。これは現在の住宅地図を中に入れてますね。これにより現在の様子と城があった頃の比較ができます。
標高8~10mの自然堤防上に立地する岩倉城は、文明の頃、織田敏広により築かれ、尾張半国の拠点として、約80年間栄ました。永禄2年(1559)織田信長に攻められ、落城した岩倉城跡からは、城の規模など、推定であるが一部解明されました。
昭和62年度から3年間にわたり、愛知県埋蔵文化財センターにより発掘調査され、6条の堀など古文書の記述と大体一致されたが調査面積は城跡推定地からすれば、ほんの一部分であり今後に期待されるところであります。
ただ、従来の通説を覆し、五条川東岸まで城域が広がる遺構も検出され、強固な城であったことが解りました。堀幅は20mを越え、深さも3m以上もある大規模な堀跡も確認されております。
外堀や、内堀からは前述の発掘調査で碗や皿、中国製の青磁、白磁、貯蔵具の常滑焼の瓶(かめ)や桶など見つかっております。珍しいものでは、つげの櫛や下駄、茶道具、呪術関係資料として獅子頭、人形、呪符木簡など注目されるものも発掘されております。
総見記は岩倉城攻めの記録で、『信長が二の丸まで押し詰めて…』とあり、古文書で記述されております。五条川の東北角から堀に水を引き入れ、掘割とし、西大手門には土塁が築かれ、本丸館は平屋造りで、間口21間(約38m)奥行13間(約23m)の広大な建物で2重の望楼を備えており、3里先からでも大屋根が望めた、という記述も残っております。信長は岩倉城を攻略し、その翌年桶狭間で戦勝、小牧山城、安土城へと天下統一と進むことになる。
観光ボランティアいわくら塾
周辺にも遺構がたくさん
周辺も散策してみます。これは岩倉街道(旧柳街道)。清須市から犬山市を結んだ街道で尾張徇行記によると寛文八年(1667)にできたとなっています。でもゼロから作ったのではなく、それ以前にあった旧道を整備したと思います。城は何らかの街道を押さえている場所にあり、いわば交通の要所でもありました。>>岩倉街道の碑
岩倉城は平城ですが周辺を注意深く見ると高台にあることが分かります。これは南側から見た高低差。先程の石碑があった公園側が高くなっています。この高低差も岩倉城の遺構です。
これは岩倉城の東内堀跡。外堀は五条川なのでココが内堀。現在は空き地になっていますが、向かって西側(本丸側)が高くなってました。>>東内堀跡の地図
こちらは大手虎口跡。杁ノ口墓地の手前に不自然な高まりがありますが、これが大手の土塁といわれています。>>大手虎口跡の地図
かつての五条川の堤防跡。大正~から昭和にかけて行われた河川改修工事で五条川が少し東を流れる様になったとか。それまではここまでが五条川でした。>>旧五条川堤址の地図
こちらは西内堀跡。現在は畑地ですが水路が流れており、反対側の地形が上がっています。水路が堀の名残だとすると高くなっている場所まで堀だったのでは?と想像も膨らみます。
山内一豊生誕地もある!
岩倉城近くの神明生田神社にある山内一豊公生誕地の石碑。一豊の生誕地は愛知県に2ヶ所あり、そのひとつの岩倉説がこの場所です。(ちなみにもうひとつは一宮市木曽川町)
私の感想
私の岩倉城の感想ですが、岩倉城跡の石碑が建立されている場所だけではなく、周辺にも確認できる遺構がたくさん残っていました。これらをぐるっとまとめて歩くと所要時間は1時間くらいかかります。信長公記にも出てくる城なので、織田信長や戦国好きの方にはオススメの岩倉城だと思いました。