江南市の宮後(みやうしろ)城址は、豊臣秀吉(木下藤吉郎秀吉/羽柴秀吉)に仕えた蜂須賀小六正勝の息子・蜂須賀家政の生誕地です。
※宮後の読みは みやうしろ
■宮後城の住所■
江南市宮後町58
宮後城の縄張り
現地案内看板を横にして北を上にすると現状の住宅地図と合います。宮後城址で見ておきたいポイントは次のとおりです
・宮後城の碑
・宮後城の看板
・宮後八幡社の石塁
・宮後城の高低差
蜂須賀家政の石碑
宮後城址は県道64号線(一宮犬山線)で分断されています。まずは北側の民家前に建つ蜂須賀家政公誕生之地石碑と看板。蜂須賀家政は初代・阿波藩主で徳島県では有名な戦国大名です。余談ですが徳島城が完成した時、領民に『今日はめでたい日なので一晩好きに踊って良い』と触れを出した事から阿波おどりができたという説があります。そう考えると阿波おどりは蜂須賀家政がキッカケだったのですね。
宮後八幡社の境内を含め、東西六十間・南北八十間(一間は約1.8m)という広大な屋敷であった。この屋敷は旧宮後城で土岐氏が美濃・尾張を領有していた応永(1394~98)のころ、尾張を治める要地として安井氏が守っていた城であった。
天文年間の後半、蜂須賀小六は母が安井氏の娘であったので故あって母の在所に住むことになり、木曽川の川並を支配した。尾張国地名考に宮後村は『この村に蜂須賀小六の屋敷跡あり』と記し、昭和四十三年頃までは『小六屋敷』といわれ、外堀・古井戸も残っていたが、都市化の波に抗しきれずその跡もない。今は県道江南・犬山線沿いに『蜂須賀家政公生誕地』という石碑が残っているのみである。
蜂須賀氏のほかに、戦国時代の武将・浅野長政は安井弥兵衛の長子としてここで生まれているという。後に叔父の浅野又右衛門の養子となり、ねね(秀吉の室)の妹ややを妻とした。(武功夜話・張州府志より)
江南市観光協会
宮後城の碑
後の見どころは県道64号線(一宮犬山線)の南側。まずは県道沿いに建つ宮後城跡の碑。背後は空き地になっています。
看板
宮後城跡の碑の横に細い道があり、そのまま歩いていくと宮後城跡の看板が建っています。
江南市前野町の旧家に伝わる戦国時代の伝承記録『武功夜話』には、十六世紀の中頃、この宮後には、蜂須賀小六の住んだ屋敷があり、その規模は南北約150メートル、東西約120メートルにも及んでいたということが記されています。また天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いについて書かれた古文書にも、豊臣方の砦として、『宮後砦』という記述のあるものがいくつかあり、宮後城の存在自体は確実とされていましたが、正確な位置など詳細についてはこれまでほとんど判っていませんでした。
しかし、このほど郷土史研究家が、地籍図(明治時代の地図)上に『城跡道』という文字を発見し、それを手がかりに城跡とみられる地割を割り出しました。そして、その後、航空写真の判読・現地踏査等の調査を実施した結果、この場所が河岸段丘(川の流れなどによって階段状になった地形)を利用した典型的な中性の城館跡であることが判明したのです。
現在のところ、城の範囲は図のようなものと推定されています。内郭と外郭に分かれていたとみられ、その中心はちょうどこの場所にあたります。館(尾張の中性城館は城というより館に近い)の周りには堀と土塁をめぐらして防御を固めていたと考えられ、土塁については現在も一部その痕跡が残っています。一辺100メートルという規模は、この時代としてはかなり大きなものですが、これは小牧・長久手の戦いの際に、以前からあった屋敷を秀吉が戦争用に改修したためと考えられます。
宮後城は、小牧・長久手の戦いの終結後に講和条件のひとつとして破却されたという記録があり、現在地上にはその痕跡がほとんど残っていませんが、戦国末期の城の造営や改修の方法を考える上で非常に貴重な資料であるといえるでしょう。
個人的に印象的だったのが宮後城跡の推定される当時の様子、つまりこんな縄張りでしたという図ですね。土豪の居館周辺を堀と土塁で取り囲んだタイプの館城(やかたじろ)です。あとポイントは東(下)に流れる川。これを天然の堀として活用していたのでしょう。
この川は現在でも残っています。川の名前は分かりません。今では細い川ですが、周辺を見ると細い地形が広がっており、かつてはもっと川幅も広かったのではと思います。
川から宮後城跡方面を見ると地形が上がっています。この高低差も城跡を偲ぶポイントのひとつです。
宮後八幡社
宮後城跡の南にある宮後八幡社まで城の範囲でした。現地の説明板によると、宮後八幡社にある石塁は宮後城時代の石塁とのこと。敵の侵入を防ぐ土塁を石で固めた様なものですね。これも見ておきましょう。
所要時間と私の感想
宮後城の所要時間ですが、宮後八幡社までセットにしても長くて約30分です。あと私の宮後城跡の感想ですが、天守など無い地方の土豪クラスの館城ではありますが、有名な蜂須賀家政の生誕地ということで、チェックしておいたほうが良いと思いました。看板だけではなく、1歩踏み込んで東側を流れる川の高低差や宮後八幡社の石塁などもセットにすると、城巡りの満足度も上がると思います。