愛知県一宮市の黒田城は、山内一豊の父・山内盛豊が城代を務めていた城で、一豊の生誕地説がある地域でもあります。
【黒田城の住所】
愛知県一宮市木曽川町黒田古城26-2
黒田城の築城は古く、明応年間(1492~1500に相模国から尾張にやって来た五藤源太左衛門光正が居館を築いたのが始まりといわれています。戦国時代には、岩倉城を本拠とした織田伊勢守家のものとなり、その家老だった山内盛豊が城代として黒田城に入ったといわれています。
【一豊公御武功附御伝記】によると、天文十四年年(1545年)に、黒田城で盛豊の三男として山内一豊が誕生しています。その後、黒田城は織田信長によって落とされ、以後、織田氏、和田氏など何人かの城主が変わり、関ヶ原合戦後に廃城となりました。
小学校となった黒田城
かつての黒田城跡は、現在の一宮市立木曽川小学校の場所と伝わり、小学校の入口には黒田城の石碑のほか、黒田城に関する案内看板も建っています。ここにはハッキリと一宮市教育委員会の見解で山内一豊はこの城で生まれると書かれてあります。
天分十四年(1545)に山内一豊は、盛豊の三男としてこの地で誕生した。
弘治三年(1557)七月、黒田城夜討にあい父盛豊、兄十郎が討死。一豊を母弟妹は土居の後ろにかねて作っておいたかくし窓を突き破って竹藪に逃げ、生竹を倒して橋とし、堀を渡って岩倉城にたどり着いた。
のちに信長、秀吉に仕え、小田原戦の後、秀吉より掛川五万石の領主に封ぜられた。関ヶ原の戦いでは、いちはやく家康側につき、戦後この功により土佐国一国二十万石の大名になった。
一宮市教育委員会
地元では英雄
校内の入口付近に建つ山内一豊と馬の銅像。功名が辻の逸話ですが、織田信長が馬揃えを行う前の事、市場で見事な栗毛の馬が売りに出されていました。一豊は、この見事な名馬で馬揃えに参加すれば、目立つし自分の名前も大きくアピールできるだろうと考えましたが、馬はとても高価なもので一豊には買う事ができませんでした。
家に帰り、半分愚痴みたいに妻の千代に名馬の事を話したら、千代はヘソクリを持ってきて、馬を購入する様に一豊に言います。妻のヘソクリで名馬を買った一豊は、馬揃えで織田信長の目にとまり、それ以後、何かと目をかけられ、出世街道をひた走るのでした。もちろんこれは逸話ですが、有名な話ということで、その銅像が木曽川小学校の入口に建っています。
まあ、銅像はそんなに大きくないですが…
黒田小学校の隣にある水路は、黒田城の堀跡といわれています。
また水路の前に立つ柵には山内家の家紋である、丸三葉柏紋(まるにみつば かしわもん)のデザインが施されていますが、この家紋が後に三菱グループのマークの由来になったというのは有名な話。三菱グループも公式サイトでその由来について解説しています。
地名(字名)も楽しめるのが黒田城の面白いところ。黒田小学校の字名は古城(こじょう)ですが、JR東海道本線を挟んだ東側の字名(地名)は城東。アパートの名称にもなってます。
山内家の菩提寺・法蓮寺
黒田城跡の木曽川小学校の近くには、山内家の菩提寺である法蓮寺(ほうれんじ)があります。ここは一豊の父・盛豊と兄・十郎の墓のほか、寺の入口には山内一豊公出生之地という石碑があります。
山内盛豊(父)と十郎(兄)の墓の案内図。これを見ると境内の奥にある事がわかりますね。案内図に従って、奥へと進みます。
ありました!向かって右が山内盛豊の墓で、左が山内十郎の墓です。歴史史跡でもありますが、基本的には墓なので、静かな気持ちで参拝したいですね。
私の感想
私の黒田城と法蓮寺の感想ですが、ここは戦国時代の遺構は残っていないものの、山内一豊の生誕地のひとつという事でオススメだと思いました。その理由は一豊の生誕地は、ここのほか、愛知県岩倉市にもあり、現在でもどちらが本当の生誕地なのか議論が続いています。
歴史の結果はともかく、この木曽川町もそのひとつなので、ここも一豊ゆかりの地という事ですね。木曽川町はJRと名鉄の両方の駅があるので、電車でのアクセスも便利ですし、車も東海北陸道の木曽川ICがあるので訪れやすいです。場所的に岐阜市の岐阜城ともセットにできるので、ここも愛知の戦国史跡として要チェックの場所だと思います。