織田信長側近で家康の伊賀越えも同行!長谷川秀一の生誕地は一宮市北方町だった

一宮市立北方中学校横に長谷川秀一公旧居跡と刻まれた石碑があります。これは織田信長の側近だった長谷川秀一の生誕地を示す石碑です。

>>長谷川秀一公旧居跡石碑の地図

長谷川秀一?と聞いてもピンとこない方もいろと思います。彼は織田家奉行衆のひとりで、分かりやすくいうと織田家の事務方として活躍した人です。事務方はどちらかというと表には出ない人達ですが、歴史を振り返ると長谷川秀一も裏方として以下の様な重要な働きをしています。

・安土の馬場建設や宣教師の屋敷地造営に携わる。
・甲州征伐では馬廻衆を率いて出陣。
・安土を訪れた徳川家康一行を堺見物に案内する。
・その後の伊賀越も熱田まで同行する。
・賤ヶ岳合戦では秀吉に味方し手柄を立てる。
・小田原攻めでは山中城を攻める。
・秀吉から羽柴姓、豊臣姓も与えられる。

文禄の役で朝鮮に渡り現地で亡くなっていますが、織田信長、豊臣秀吉に仕え、徳川家康の伊賀越えにも同行するなど、いろんなところで活躍した武将です。

石碑を見ると…

さて、一宮市立北方中学校の石碑の側には、なにやら小さな石碑もセットになっています。これを読んでみると、もともとこの石碑は一宮市北方町の下渡り公民館付近に建てられたものをこの場所に移転したとのこと。つまり長谷川秀一の生誕地は下渡り公民館付近だったということですね。

ということで下渡り公民館

石碑の案内通りに下渡り公民館にやってきました。一宮市立北方中学校から東に約1kmの場所にあります。

>>下渡り公民館の地図

一宮北ライオンズクラブの説明板もありました!

東郷侍従旧居跡

 東郷侍従(とうごう じじゅう)は北方の人。幼名を長谷川竹といい、信長公の小姓をつとめ成長して藤五郎秀郷と名乗る。信長公が本能寺で横死の後、長久手の戦いで秀吉公に仕え戦功により、天正十二年(1584)越前足羽郡東郷十万石を領し、牧山城を築く、同十三年根来の僧徒を平らげ、七月従五位下に叙せられ、東郷侍従に任ぜられ、秀一と改める。

 この人器量抜群にして、へつらうことなく、進言を発して高貴な人にもはばからず人にあがめられる。

 文禄元年(1592)豊臣秀吉の命により国外出兵、五千の軍勢を率いて戦い、文禄三年(1594)三月彼の地に卒死、跡継ぎが無く家は絶えた。

なぜ東郷侍従という名前なの?

長谷川秀一がなぜ東郷侍従(とうごう じじゅう)という名前なのか?これは秀一自身が自分の領地の地名と自分の官位をくっつけて名乗っていたからです。秀一は天正十三年(1585)に越前国東郷(現在の福井県福井市東郷二ケ町)で15万石の領主になっています。また朝廷から従四位下・侍従(じゅしいのげ・じじゅう)という官位を頂いていました。さらに天正十五年(1587)の九州征伐後、秀吉から羽柴姓を与えられ、自らを羽柴東郷侍従と名乗っていました。

私の感想

私の長谷川秀一(東郷侍従)旧居跡の感想ですが、マイナーな武将になるのでしょうけれど、信長公記にも名前がたびたび出てくる武将なので、織田家的には重要なポジションだった人物ではないかと思います。その長谷川秀一の出身地が現在の一宮市なので、これも愛知ゆかりの武将ということです。

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