豪快な堀跡が残る!松平信孝が築いた安城市山崎城址

安城市山崎町に残る山崎城址は徳川家康の大叔父だった松平信孝が築いたといわれる城です。現在は神明社になっています。

■山崎城址の住所■

安城市山崎町城跡

>>山崎城址の場所の地図

現地案内看板

山崎城址

 山崎城址は碧海台地(へきかいだいち)の東側に位置する城館跡です。北側が谷地形で、東側が沖積地(ちゅうせきち)に面しています。かつては堀や土塁がよく残存していましたが、1960年代に行われた土地改良事業に伴い堀の大半は埋め立てられ、西側土類の一部のみが保存されました。現在堀は幅13m、深さ2mのものが50mほど残っています。また保存された西側土類の上に神明社が鎮座しています。

 この城は戦国時代の典型的な方形城館で、現在『山崎城』と呼ばれていますがもとは『岡の城』または『大岡城』と呼ばれていました。天分十二年(1543)に織田氏と親密な関係にあった三木松平家初代の松平信孝が、今川方の松平広忠が在城する岡崎城からの攻撃に備えて築きました。しかし天文十七年(1548)に松平信孝が岡崎城に出陣し戦死したため、山崎城は城主不在になりました。

 そして天文十八年(1549)に安城合戦に勝利した今川氏が安城城(安祥城)を明け渡させたときに廃城となりました。ただし一説によると天正十三年(1585)の小牧・長久手の戦い後の羽柴勢との緊張状態の中で徳川勢が他の城を改修した時にあわせて改修工事をしたといわれています。

安城市教育委員会

それでは現地へ!

山崎城址は周辺の高低差も楽しいです。この時は南側を走る東海道本線の線路から向かってみました。すると山崎城址の神明社が周辺より高い場所にあることがわかります。

そして神明社。ここの地名(字名)は城跡です。

神明社本殿前にある山崎城址の説明看板。これは地元の保存会の皆さんによるもの。1960年代の古写真がたくさん使われており、かつての山崎城址の様子がよくわかります。現在は住宅地になっていますので、この古写真はかなり貴重です。

安城市教育委員会の説明看板を見ると、神明社の社殿自体も土類の上にあると書かれています。これを実感するには道路側から社殿のある場所を見てみること。すると高くなっているのが分かります。

メインの堀跡は社殿の後ろにある

山崎城址のメインはこの豪快な堀跡です。神明社の社殿の背後にあります。神社に参拝だけなら気付きませんね。説明看板によると堀の詳細は以下のとおりです。

●幅 13m
●深さ 2m
●長さ 50m

神明社側から見るともう少し深いです。

安城市教育委員会の説明看板を見ると、神明社本殿は土塁の上にあると書かれていますが、意識して見ると確かに高くなっているのが分かります。

古写真と古地図

安城市教育委員会の現地看板にも1960年代の古写真があります。これは北土類と北堀。つまり現在、神明社の後ろに残っている堀みたいなものが周辺にもあったということですね。

こちらは江戸時代に描かれた浅野文庫蔵諸国古城之図に記載がある山崎城址。街道を城内、またはすぐ側を通しています。この理由は敵の軍が街道を通る時、山崎城をなんとかしないと通れないということです。

所要時間と私の感想

山崎城址の所要時間は周辺をグルっと周り高低差を体感する、また説明看板とメインの堀を合わせて15分くらいです。私の感想ですが、神明社背後の大堀を見るだけでも訪れる価値はあると思います。周辺の地形も合わせて楽しめる城址です。

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