戦国時代、尾張の織田氏と三河の松平氏との間で争奪戦が繰り広げられた安祥城は、ほとんど平城に近いのですが、周辺を湿地帯に囲まれて堅固な城でした。
そんな安祥松平氏の二代・松平長親(長忠)は、連歌や茶道を好み、安祥城近くの銘水の井戸を七ヶ所選び、七つ井(ななつい)と名付けました。その七つ井はいったいどこにあったのか?今回はそんな安祥七つ井を探して現地へ行ってみました。
資料はこれ
今回、安祥七つ井の場所を探す資料として使ったのは、安城市歴史博物館で配布している安城歴史の散歩道(無料)。ここに大まかですが七つ井の記載があり、詳細はグーグルマップで微調整。なんとか歩いて以下のマイマップを制作してみました。
今回は安城市歴史博物館を拠点にして近場から攻略です。
梅井
まずは安城市南部小学校前にあった梅井。小学校のフェンス前によく見ると七つ井の看板があり、その下に梅井がありました。
井戸の横には石碑もあります。
柳井
2番めの井戸は柳井。実は柳井は中日トーヨー住器株式会社安城営業所の倉庫前にあるので、見学の際には一言会社の方に声をかけておきましょう。
倉庫の横に石碑があります。しかし井戸は残っていません。
桜井
柳井を見た後、県道48号線(岡崎刈谷線)を渡り、道を真っ直ぐ進むと民家の壁に半分埋まっている井戸があります。これが桜井です。場所的には明法寺の北側です。
横から見ると井戸と石碑があるのがよくわかります。蓋がしてあり中は見ていませんが、今でも水があるみたいですね。
そのまま歩くと細い道に出て右(南)へ曲がります。この周辺がかつて安祥城があった頃、城下町があったと考えられる場所です。
住宅地がある十字路のところに市場神として大黒石が祀ってありました。案内板によると市場の安全を祈願して恵比寿石と大黒石を祀ったそうで、この地域では律令時代(大化の改新後の7世紀後半~10世紀ごろまで)から市場があったと考えられています。この市場神が祀ってある場所は安祥城から見ると北側で、地形も高い場所にあります。
中井
市場神を過ぎて南へ坂を下り始めの場所にありました!七つ井・中井です。場所は思いっきり民家の前。井戸はなく石碑だけが残っています。
筒井
市場(城下町)から坂を下った場所にある筒井。七つ井の中でもひときわ銘水といわれたのがこの筒井です。
一説には徳川家康がまだ竹千代と名乗っていた幼少時代、織田家の人質となっていた時があり、人質交換により岡崎城へ帰る時、この井戸の水を気に入り竹の筒に入れて持ち帰り、そこから筒井を名付けられたとか。
もしこの逸話が本当なら、七つ井を決めた松平長親(長忠)の時代は別の名前だったということですね。
筒井は今でも水が湧いています。
また安祥城の案内看板にもある浅野文庫諸国古城之図にある安祥城の古地図にも、この筒井は記載されています。
浅黄(あさぎ)井
筒井の前を通る県道78号線(安城幸田線)を渡ると浅黄(あさぎ)井の石碑があります。浅黄井は石碑のみで井戸は残っていません。あと浅黄井のある場所も興味深いポイントがあるのです。
先程の古地図を見てみると、浅黄井も記載があるのですが、井戸の横(西側)に道があります。赤い矢印で示した道ですが、これは旧街道だと思います。
この道は今でもあり、まっすぐ行くと川を渡り現在の安城市古い町方面に抜けます。更に南へ行くと桜井松平氏の居城・桜井城へ向かいます。
風呂井
大乗寺を経て安城市歴史博物館へと戻ってきました。安祥公民館の前にあるのが風呂井。ここは石碑も新しいものが建立されています。
井戸の枠組みも現代のものっぽいですね。
私の感想と所要時間
今回は安城市歴史博物館を拠点にかつての安祥七つ井を全て巡ってみました。所要時間は約40分ほどで安城市歴史博物館へ帰って来ることができました。私の感想ですが、七つ井は井戸が無くても石碑は残っているので、全て巡る事ができ、安祥城周辺ウオークを楽しむことができると思います。
その理由は高低差や市場跡、また寺院やその他史跡もチラホラあるので、歩いてみて面白かったです。現在は水道が普及しているので七つ井の役割も終わってしまったのかもしれませんが、この井戸も今や史跡なので、できる限り残してほしいですね。