安城市根崎町の根崎陣屋は、江戸時代に現在の安城市南部を治めるために築かれた陣屋跡。現在は地元で遺跡の丘と呼ばれ、永井伝八郎直勝の側室・由利姫(百合姫)の祠があります。
現地説明看板
慶安三年(1650)、時の領主、松平正信(隆綱)は、根崎村を東端村から分離独立させるとともに、当時、この『遺跡の丘』を一部とした総面積約二ヘクタールの高台上の平地に陣屋(代官所)を設けました。
当初、その支配地は根崎村をはじめ碧海郡八ヶ村(根崎、東端、和泉、榎前、高取、野寺、小川、川島)でしたが、元禄十六年(1703)の変更で三ヶ村(根崎、東端、和泉)の三千石となり、幕末を迎えました。
根崎町内会
現地案内看板にあった江戸時代末期、つまり幕末の根崎村周辺の地図。この時代まで来ると現代の地名と同じです。(安城市)
・和泉村=和泉町
・城ヶ入村=城ヶ入町
・東端村=東端町
まずは高低差
まずは根崎陣屋の高低差を確認します。江戸時代の絵図にも描かれているように舌状台地の先端みたいな場所にあったことが分かります。根崎陣屋の東にある根崎西ちびっこ広場から見ると、西に向かう地形が上がってます。展望も良いですし、有事の際にも守りやすい地形です。
そして陣屋跡
遺跡の丘の門から登ります。細いですがちゃんと道があるのでOK。頂上まで歩いてすぐ。
頂上は削平地になっており、永井直勝の側室・由利姫(百合姫)の祠があります。
天正十三年(1585)の夏、時の東端城の城主・永井伝八郎直勝の妻・由利姫(百合姫)は、故あって東端城から船で実家(寺津村)※1へ送り返される途中、この地に一人上陸し、幼い我が子を思いながら自害したと伝えられている。姫の死を知った根崎の村人たちは、姫を哀れみ、塚を築いてその霊を弔い、『百合姫講(ゆりひめこう)』をつくり、四百年途絶えることなく姫の命日(七月七日)に追善供養を続けてきた。
昭和三十九年(1964)塚は取り壊され、この地に祠を築き祀ることになった。由利は、江戸時代にこの地を治めた大河内松平の祖『松平正綱』の姉にあたる。
根崎町内会
私の根崎陣屋の感想ですが、江戸時代の陣屋跡ということなのですが、小牧長久手の戦いで池田恒興を討った永井直勝そしてその妻・百合姫というキーワードで戦国時代とも繋がります。この繋がりも歴史の面白さのひとつです。