名古屋市中区洲崎神社(すさきじんじゃ)は、戦国時代の廣井城跡で、名古屋城築城時にはこの地から堀川が開削されました。現在では堀川沿いの神社くらいにしか思われていない洲崎神社ですが、戦国ファン、歴史ファンが楽しめる要素がたくさんあります。この記事でチェックしてみましょう。
■洲崎神社の場所の住所■
名古屋市中区栄1丁目31−25
これを見ると納得!
まず洲崎神社の鳥居前にある案内を見てみましょう。するとこれだけズラッと書いてあります。
【1】廣井城跡
天文年中(1532~1555)迄、城主・中村氏以後社家が廣井村を支配
【2】三霊神社遺跡
徳川慶勝(尾張藩第14代、第17代当主)建立の神社。
【3】御船方役屋敷跡
享保年間(1716~36)船屋敷を建てる
【4】堀川初開削の地
慶長十五年(1610)此の地に祈願祭を開削す
天王崎港跡
まず戦国時代の天文年間(1532~1555)にはこの地の豪族・中村氏の廣井城があり、名古屋城築城時には外堀・運河として開削された堀川がここから掘られたということ。さらに江戸時代には尾張藩の水軍の拠点にもなったということです。
堀川開削の地
名古屋市を流れる堀川は、名古屋城が築かれた時、福島正則が開削総奉行として掘った人口の川です。ゼロから掘ったとも、もともと小川がありそれを船が往来できるくらいに拡張したともいわれています。
堀川は名古屋城のすぐ側から熱田神宮の南にあった熱田湊(みなと)まで繋がっており、もし名古屋城が敵に攻められれば外堀に、平和な時は熱田湊で荷揚げされた物資を名古屋の町や名古屋城に運ぶ運河として活用されました。
その堀川を堀始めたのが現在の洲崎神社あたりということです。ここから南北に向かって掘ったのでしょう。
御船方屋敷跡
御船方屋敷跡については道路の向かい側に名古屋市教育委員会の案内看板が建って居ます。金網の向こうにあるのでかなり読みにくいです。文字を起こしてみます。
この地は、かつて尾張藩の御舟手役所が置かれた所で、尾張藩海軍の根拠地ともいうべき所であった。 弘化四年(1847)の記録によれば、奉行の配下に船軍者一名、舟手改役(ふなてあらためやく)三名、舟手与力(ふなてよりき)五名、大船頭八名、船頭十名、船大工三名、水主(かこ)一二三名、合計一五三名とある。 代々千賀氏が船奉行として藩の艦船を掌握し、尾張、三河、伊勢、志摩に至る海岸の防衛に当たっていた。
名古屋市教育委員会
尾張藩の水軍の拠点となった場所が洲崎神社がある場所ということですね。ちなみに千賀氏とは戦国時代、師崎(もろざき:現在の南知多町)に勢力を持っていた豪族で、江戸時代になると尾張藩の水軍を統括していた一族です。
洲崎神社のすぐ側には堀川が流れています。かつて名古屋城の外堀、そして運河となった川です。
高低差もチェック!
洲崎神社はかつての廣井城跡ということで、お城目線でもチェックしてみます。まず堀や土塁など、お城の定番の遺構はありませんが高低差がインパクト大です。入り口から社殿に向かって高くなっています。地図でいうと南が低く北が高いです。
次に西側から見てみるとやはり高い。トラックのさらに上に洲崎神社があることがわかります。つまり南と西側が低くなっており、北と東が高いのです。
この高低差は廣井城があった頃からの自然地形なのでしょう。高低差があると敵を防ぎやすいので、城跡を巡る時はぐるっと高低差もチェックしてみます。
私の感想
私の洲崎神社の感想ですが、この地は戦国時代~江戸時代まで楽しめる歴史スポットだと思いました。また堀川は名古屋城検定によく出てくるポイントなので、その堀川が掘り始められたといわれる洲崎神社は、名古屋城検定を受ける人は現地チェックしておいたほうが良いと思いました。
あと洲崎神社(廣井城跡)を巡る所要時間は、周辺の高低差を合わせても10~15分くらいなので、古渡城など他の中区の史跡とセットにすると良いと思います。