八幡林の戦い(羽黒合戦)の現地レビュー!犬山市・八幡林古戦場と野呂塚

犬山市の八幡林古戦場は、天正十二年(1584)年に起こった小牧・長久手の戦いのキッカケになった八幡林の戦い(羽黒合戦)の古戦場です。

徳川家康と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の最初で最後の直接対決といわれる小牧・長久手の戦いは、国宝・犬山城がある犬山市から始まりました。この記事ではその現地をチェックしてみます。

■八幡林古戦場の住所■

犬山市羽黒八幡31−4

>>八幡林古戦場の地図

八幡林の戦い(羽黒合戦)を簡単に説明

現地案内看板(参考資料:倉地勉氏著『八幡林合戦図』より

羽柴軍の池田恒興が犬山城を奪取した後、娘婿の森長可(森蘭丸の兄で美濃・金山城主)が3,000の兵で八幡林に布陣します。これに対し徳川軍は酒井忠次榊原康政奥平信昌が5,000の兵で対峙。天正十二年(1584)年3月17日に合戦が起こります。

森長可は鬼武蔵(受領名が武蔵守だった)という異名を持つほど強い武将でしたが、徳川軍のろくろ回しの戦法に敗れてしまいます。こうして小牧・長久手合戦の緒戦といわれる八幡林の戦い(羽黒合戦)は徳川軍の勝利に終わります。

そして現地

八幡林古戦場は現在の犬山市羽黒八幡にある羽黒八幡宮周辺といわれています。近くには犬山市立羽黒小学校名鉄羽黒駅があります。地名がそのまま羽黒なんですね。羽黒八幡宮周辺はうっそうとした林で覆われています。ここに八幡林古戦場の看板もあります。

現地看板(犬山視聞絵図)より。天野周防守(天野雄光:あまのかつみつ)森軍を襲うの図。松平家信・野呂助左衛門組合うの図。ここで注目したいのが松平家信が組合った野呂助左衛門宗長。

野呂助左衛門宗長は森長可の家臣で、森軍が徳川軍のろくろ回し戦法で崩れた時、森長可を逃がそうと奮戦した武将です。

そして野呂塚

野呂助左衛門宗長と息子の野呂助三郎は森長可を逃がすために奮戦しましたが、徳川軍に討ち取られました。そんな野呂助左衛門宗長と息子・助三郎を顕彰するために建てられたのが、犬山市羽黒羽黒八幡の野呂塚です。

野呂助左衛門宗長親子が討死した場所はこの地ではなく、1kmほど東にある現在の犬山市立東部中学校付近だといわれています。現在の野呂塚石碑は大正七年(1917)3月に羽黒青年会によってこの地に建立されたものです。

■野呂塚の住所■

犬山市羽黒前川原23−3

>>野呂塚の地図

現在では大小の石碑があります。(※野呂助左衛門の墓とか首塚ではなく顕彰碑です)また地元の野呂塚保存会の皆様によって、供養祭や維持管理が続けられています(感謝!)

所要時間と私の感想

八幡林古戦場と野呂塚の所要時間ですが、看板読んで周辺と石碑見るくらいなので10~15分くらいだと思います。八幡林古戦場の看板から野呂塚まで100mくらいなので徒歩で移動できる範囲です。

私の八幡林古戦場と野呂塚の感想ですが、徳川家康と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の最初で最後の直接対決といわれる小牧・長久手の戦いのキッカケになった古戦場なので、小牧・長久手の戦いが好きな方は是非、チェックしてほしい史跡だと思いました。

あと気付いた点ですが、所要時間が短いので近くの楽田城とか羽黒城、または犬山城とセットにすると城巡り、史跡巡りの満足度も増すと思います。

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