織田信長の妹を妻にした牧長清の名古屋市中区小林城址

名古屋市中区の小林城址は織田信長の妹を娶り、この地に勢力を持っていた土豪・牧長清の居城跡です。

■小林城址の住所■

名古屋市中区大須4丁目1−32

>>小林城址の場所の地図

小林城の歴史

小林城跡

 天文(1532~55)のころ、尾張の主語・斯波氏の一族である牧長清が居城し、前津小林四千石を領した。長清は織田信長の妹を妻にして織田氏とも縁が深かった。婦人は人々から親しみを込めて、小林殿と呼ばれていた。

 長清は老後、参禅して仏門に帰依し、その死後、小林城は廃城となった。城跡は、二代尾張藩主光友の剣術師範を務めた柳生新陰流の達人、柳生兵庫の屋敷地となった後、元禄年中(1688~1704)、ここに清浄寺(しょうじょうじ)が建てられた。

名古屋市教育委員会 

ここでのポイントは織田氏と婚姻関係を結んでいるということ。織田信長の織田氏は尾張の有力土豪と婚姻関係を多く結んでいました。これは有力者とできるだけ戦わず、親戚になって従わせるためと考えられています。牧長清もこの地の土豪として一目置かれていたのでしょう。

牧氏の足跡

牧氏が有力豪族だったと思わせる足跡というか名残がチラホラ残ってます。まずは小林城近くの大須商店街に残る三輪神社。ここは江戸時代の尾張藩の弓の訓練場、つまり矢場だったのですが、その三輪神社の改築に牧長清が携わっています。また名古屋市天白区の島田城主は牧虎蔵という人物で、小林城の牧氏との関係が指摘されています。

長清の妻・小林殿について

牧長清は織田信秀の娘(第12女で信長から見ると妹)を妻にしており、織田氏と親戚の関係でした。この女性の名前は『おとく』または小林殿。また夫である長清が亡くなってからは信徳院(しんとくいん)と号し、信長が本能寺の変で亡くなった後、織田信雄に保護され天正十五年(1587)まで生きています。

【Q】信長には何人の兄弟、姉妹がいたの?
 
【A】分かっているだけでも兄弟11名、姉妹14名ほど

これには諸説あります。ただ織田信秀のこども、つまり織田信長の兄弟、姉妹は合計すると20名越えていたのは確かです。これは正室の土田御前1人で産んだのではなく、織田信秀も複数の側室がいましたのでこの人数になりました。

現地レビュー

小林城址は現在、浄土宗清浄寺(しょうじょうじ)になっています。地元では矢場地蔵尊のほうが有名かもしれません。

小林城址の遺構は残っていませんが、東側から見ると清浄寺が高台になっていることが分かります。つまり小林城の東側が低くなっており、崖の下ということです。現在ではフラットになっているので車もスンナリ入る事ができますが、東側は崖の地形です。

そして墓所

清浄寺には小林城主・牧長清の墓と妻・信徳院(小林殿)の墓、そして一族の墓があります。私の感想ですが、遺構は残ってない小林城址ですが、城主の牧氏が広範囲で名古屋市の城跡に影響があるので、郷土史的にみると面白いと思いました。小林城址は万松寺をはじめ大須商店街とセットにできる城でもあります。

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