大府市の市名の発祥は湧き水だった?!七津太夫ゆかりの桃山町大清水館跡

大府市桃山町1丁目の大清水館は、大府市の市名の由来となる七津太夫の屋敷があった場所です。現在では大清水地蔵という延命地蔵尊が建立されています。

>>大清水館の場所の地図

どんな由来?

現地案内看板には以下の様に書かれています。

 大清水地蔵様の由来

 大府市を南北に貫通する大浜街道(県道名碧線)を南下、追分の地点を過ぎると左方高台(六果園地内)のわずかに残った松林の陰に延命地蔵尊が見える。今は、二万台に近い車の往来を俯瞰(ふかん)している。その下、今も清冽(せいれつ)な清水が湧出。往時は大量の清水が出たところから大清水と呼ばれた。この大清水は大府発祥の地であるといわれている。

 領土争奪の戦国乱世の端緒となった応仁・文明の大乱(1467~77)に朝廷の高位、高官はひそかに都落ちし難を避けた。大府にも七津太夫(ななつたゆう)というものが、原の大清水に七津屋敷という御殿を設けて居住した。太夫は常に烏帽子、直垂で挙動温雅、風格があって近郷、近在を謡い、祈祷し、寺社を巡行した。土地の人々は太夫さまと尊称していた。以後太夫の徳を慕って太夫を村名にしたといわれる。

 延命寺の元禄七年の古文書に『当時大清水の下七津屋敷に滝本中納言と申す公家衆居られ候申伝へ候』とあって、いにしえから滝本中納言と七津大夫を同一人としている。この地に地蔵様を最初にまつられたのは七津大夫の頃であったかもしれないが、現在の地蔵尊は明和四年(1767)四月二日に建立したものである。昔から土地の人々はもちろん、往来する旅人の参詣の霊地であり、憩いの場所であった。(大夫風土記)

 平成十二年八月吉日建立 大清水のぼり奉賛会

これを読むと、戦国時代の始まりと考えられている応仁の乱(1467)の頃、都落ちした公家が由来になっている事がわかります。

そして井戸

この大清水の地は水が豊富だったことが案内看板に記載されていますが、現地にも井戸があり未だに水が湧いています。

交通の要所

大清水館の西を通る県道50号線は、かつての大浜街道なのでしょうか?そのまま南に向かうと刈谷方面でその南が現在の碧南市です。私の感想ですが、大府市の市名のゆらいが戦国時代初期の公家に関係しているというのが興味深かったです。

ちなみにその後の七津太夫の記録は歴史から消えてしまうので、もしかすると子孫がおらず滅びたのか、別の場所に行ってしまったのか、その後の足取りも気になりますね。

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