豊明市に前後町(ぜんごちょう)という変わった地名があります。名鉄前後駅がある場所です。この地名、実は桶狭間合戦がキッカケで付いた地名といわれています。その由来とは何なのか?わかりやすく解説します。
桶狭間の戦いとは
桶狭間(おけはざま)の戦いとは、戦後時代の永禄三年(1560)に現在の名古屋市緑区~豊明市周辺で起こった合戦。尾張に攻めてきた駿河・遠江(現在の静岡県)の戦国大名・今川義元を織田信長が討ち取った合戦です。
今川軍の大将・今川義元が討たれると今川軍は総崩れとなり、四方に散らばり逃げました。そこで織田軍の追撃戦が行われるのですが、現在の名古屋市緑区前後町あたりでたくさんの今川軍兵士が討ち取られました。
討ち取られた首は信長の居城だった清洲城で検分(調査)されるので、首を清洲まで持っていかなければなりません。しかし複数の首だと重いので槍の前後に首をくくりつけて運んだので、このあたりを前後と呼ぶようになったといわれています。
違う説もある!
しかしこの説にも疑問が残ります。それは江戸時代に尾張藩が尾張国内の地名の由来を調査して編集した尾張地名考(おわりちめいこう)という書物があります。これによると前後の地名は、全郷⇒前後になったという意味合いのことが書かれており、桶狭間合戦での首の前後については触れられていないのです。
私の考え
私の前後町の地名の感想ですが、尾張藩の調査で桶狭間合戦については記載されていないものの、槍の前後の可能性はあると思います。
その理由のひとつ目は桶狭間合戦は広範囲で行われた合戦であるということ。前後駅から徒歩15分くらいの場所に桶狭間合戦での戦死者を祭った戦人塚があります。つまり前後町近くまで合戦が繰り広げられていたということです。
2つ目は全郷村は江戸時代の地名なので、それ以前の戦国時代の地名がもしかすると前後村だったのかもしれない。前後(戦国)⇒ 全郷(江戸)⇒ 前後(現在)という流れだったのかも。
3つ目の理由は尾張藩の調査も完璧ではなく、伝承の記載漏れ、もしくは意図的に変えたとか。ともあれこれらは全て私の仮説ですが、桶狭間古戦場に近い場所に残る少し変わった地名が気になりますね。