岡崎市土井町は徳川家康に仕えた本多広孝と江戸時代の徳川幕府で活躍した土井利勝ゆかりの地です。また土井城址がありました。土井町は古くからの集落で現在でも史跡や城にまつわる地名(字名)が残っています。今回、土井町の散策に行ってきたのでどんなものがあるのかをチェックしてみましょう。
■土井城址の住所■
土井町のポイント
土井町でチェックしておきたいのが以下の4つです。
- 土井町辻
- 土井氏一族発祥地
- 土井城址
- 本多秀清と早乙女一族の墓
では順番に見ていきます。
土井町辻
地区(集落)の入り口に道が交差する場所があります。地名を調べると字名が『辻』です。辻とは道路が十字形に交わる所、または人が往来する道筋や街頭に使われる地名です。
ただ個人的に気になったのはこの字辻の北250mの場所に土井城址がある字城屋敷があります。もしかすると城の入り口、虎口(こぐち)みたいな場所だったのかもしれません。
土井氏一族発祥地
江戸幕府初期の重臣として活躍した、土井利勝の土井氏一族発祥の地が岡崎市土井町といわれています。土井利勝は出生や親、生誕地にいくつかの説があります。岡崎観光文化百選では、早乙女姓を名乗っていた利勝がこの地に住み土井を名乗ったとのこと。
土井城址
この地には本多豊後守家が築いた土井城がありました。看板は以下のとおりです。
土井城は、土井の集落がある矢作川左岸の自然堤防の上にあります。遺構は、昭和三十年(1955)の中頃まで、城郭の高まり(土塁)と水田化した堀跡が残っていましたが、市街化により水田が宅地に変わり、城跡はほとんど失われています。
主城郭は、土井町字城屋敷で、建築年代は十六世紀初期です。創築者は本多豊後守家三代の本多信重です。形式・規模は、主城郭、堀、家臣の屋敷を含めると、南北四百メートル、東西二百メートルの平城で、この時期の国衆の城としては、類を見ない大規模な城郭でした。
本多豊後守家は、初代秀清、二代清重までは少し東の土井町字番城、字丸山に住み、三代信重がこの地に築城したものです。四代広孝は、大永七年(1527)にこの城で誕生します。広孝は、松平広忠、徳川家康に仕え、この城を拠点として活躍します。
特に永禄六年(1563)の三河一向一揆勃発の時、当城にあって周囲の寺などに立て籠もる敵に取り囲まれ奮戦します。翌七年に、広孝は田原城を攻め、落とし田原城主となり、家臣ともども田原へ移ります。
土井城は家臣の太田家に管理させますが、周りの家臣の屋敷は空き家となります。 田中吉政が岡崎城主となると、『廃城命令』が出され、土井城と周りの堀は、すべて埋められ水田となり、城としての機能はなくなりました。
広孝の嫡男康重は土井城で生まれ、慶長六年(1601)に岡崎城主となり、康紀・忠利三代四十五年間続きます。 現在は、地名に当時の名残の字城屋敷、字池田、字池端、字城屋敷が残っています。字間之堀(あいのぼり)もありましたが、今はありません。
現地看板によると土井城址があった場所は土井町字城屋敷。現在では地蔵堂の裏あたりに城屋敷の地名が残っています。
本多秀清と早乙女一族の墓
この地に土井城を築いた本多豊後守家の初代・本多秀清と土井利勝の早乙女一族の墓も土井町に残っています。別の場所にあったものを移転しました。
周辺の地名もチェック!
岡崎市土井町の東を見てみると、城郭関連の地名が残っていることに気が付きます。字番城や字丸山に最初の土井城がありました。また土手(土塁のことか?)、堀ノ内(堀があった?)など、城にゆかりの地名が残っています。
所要時間と私の感想
土井町と土井城址の所要時間は歩いて散策したので30分ほどでした。また私の感想ですが、1つの地区(集落)に城跡、字名、武将の墓所が固まっているので、郷土史が好きな方にオススメと思いました。道が細いし各史跡に駐車場も無いので、歩いての歴史散策がよいでしょう。